三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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北条氏照(ほうじょう・うじてる)
相模の人(1540~1590)
北条氏康の三男。
はじめは大石家に婿入りし大石氏照を名乗ったが、後に北条姓に復し大石家を傘下に入れた。
弟の北条氏邦(うじくに)は同じく藤田家に入り、家を乗っ取ると藤田一族を粛清したが、氏照は逆に大石一族を手厚く遇したという。
武勇と外交戦術に優れ、主に東方面軍の指揮や東北・下野の大名の調略や交渉を担当した。
1568年、武田軍に守る滝山城を囲まれ三の丸まで落とされたが、二の丸で踏みとどまり武田軍を撤退させた。その際に武田勝頼(たけだ・かつより)と一騎打ちをしたとも伝わる。
氏照は平地にある滝山城の不利を悟り、代わって山城を築いた。山頂に八王子社が祀られたため八王子城と名付け、これが現在も残る八王子の由来である。
1569年には戦国最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いで武田軍に敗北。
1578年、上杉謙信没後の上杉家の家督争いでは、弟の上杉景虎(かげとら)を援護するため越後に出撃した。
しかし上杉景勝と降雪に阻まれ、足止めされるうちに敗れた景虎は自害を遂げた。
北条家は織田家に対しては従属路線を歩んでいたが1582年、本能寺の変で織田信長が討たれると、混乱に乗じて織田領の上野を奪い取り、以後は信長の後釜に座った豊臣秀吉からは距離を置き、徳川家、上杉家らと信濃・甲斐を争った。
1590年、秀吉が北条家征伐のため全国から20万もの大軍を集めるも、小田原城を頼みに徹底抗戦を主張。
しかしさしもの戦国一の巨城も地を埋め尽くすような大軍には抗し切れず、降伏開城すると主戦派として兄で前当主の北条氏政(うじまさ)や筆頭家老・大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)らとともに切腹を命じられた。享年51。