三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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松前慶広(まつまえ・よしひろ)
蝦夷の人(1548~1616)
蝦夷の大名・蠣崎季広(かきざき・すえひろ)の三男。
兄2人は実姉に毒殺されたため、1582年の父の隠居に伴い家督を継いだ。
蠣崎家は出羽に一大勢力を築く安東家に古くから従属しており、安東家の意向で季広の代にはアイヌ民族と融和路線に転じ、蝦夷の支配権を確立していた。(季広の独断とする説もある)
1590年、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、慶広は蝦夷の代官として安東実季(あんどう・さねすえ)に随行し上洛した。
そして前田利家に取り入り秀吉に謁見すると、所領安堵と従五位下・民部大輔の官位を得て、名実ともに安東家からの独立を果たした。
季広はこれを大いに喜び、「自分はこれまで安東家に仕えてきたが、お前は天下の将軍の臣となった」と息子を伏し拝んだという。
1591年、九戸政実(くのへ・まさざね)の乱が起こると慶広も出陣を命じられた。
その際にはアイヌから得た毒矢を用い、大変な威力を誇ったと記録されている。
1593年、文禄の役に先立ち秀吉に謁見すると「狄の千島の屋形(異民族の島の主)」が参戦することは、同じ異民族と戦うにあたって成功の兆しであると秀吉は大喜びし、さらに上位の官位を与えようとした。
慶広はそれを辞退し、代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求めた。慶広は朱印状をアイヌに示し「命令に背けば秀吉が10万の兵で討伐に来る」と脅し、ついに蝦夷全域(北海道・樺太)の掌握に成功した。
1598年、秀吉が没すると慶広はいち早く徳川家康によしみを通じた。
蝦夷の地図を献上し臣従の証とし、また姓を家康の旧姓「松平」と、秀吉との間を取り持ってくれた「前田」利家から一字ずつもらい受け「松前」と改めた。
これが功を奏し、1604年にはアイヌ交易の独占権を認められ、さらに石高は当時の蝦夷地では稲作が出来なかったため1万石どころか0石にも等しかったものの、松前家は大名格と見なされ松前藩を立てられた。
1609年、猪熊事件(公卿による乱交パーティー)により配流となった花山院忠長(かざんいん・ただなが)を、慶広は賓客として迎え入れた。忠長は5年後に津軽へ移されたが、公家との太いパイプの構築に成功し、松前家には以後、公家の娘が代々輿入れし、松前藩に公家文化をもたらした。
1614年、豊臣家に通じたとして四男を誅殺し、翌年には大坂夏の陣に幕府方として参戦した。
1616年、69歳で没し、長男は早逝していたためその嫡子にあたる松前公広(きんひろ)が19歳で跡を継いだ。
松前藩はその後、幕府にしばしば蝦夷の支配権を奪われることはあったが、明治期まで存続した。