三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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長連龍(ちょう・つらたつ)
能登の人(1546~1619)
能登畠山家に仕えた長続連(つぐつら)の三男。
若くして出家し孝恩寺の住職となったため、通称も孝恩寺(こうおんじ)を用いた。
畠山家は続連ら「畠山七人衆」と呼ばれる重臣によって長らく傀儡政権を布かれ、当主の追放や暗殺が相次いでいた。
しかし次第に結束は衰え、七人衆の間で争いが起こると、1577年に上杉謙信の侵攻を招き七尾城を包囲された。
続連は連龍に命じて織田信長に援軍を求めさせたが、七人衆の温井景隆(ぬくい・かげたか)・三宅長盛(みやけ・ながもり)兄弟と遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)の裏切りによって援軍の到着を前に城は陥落し、長一族は連龍を残し死に絶えてしまった。
連龍は織田家に仕え復讐を志し、北陸方面軍を率いる柴田勝家、前田利家のもとで戦った。
上杉謙信が没すると形勢は織田方に傾き、織田軍は能登を攻略し、降伏した遊佐続光は処刑された。なお長家の家譜では続光は逃亡したものの連龍が追撃し首を取ったとされる。
能登は前田利家に与えられ、連龍は以降、前田家に仕えた。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、温井景隆・三宅長盛が上杉景勝の支援を受けて攻め寄せたが、前田軍はこれを撃退し二人の首を挙げ、連龍は一族の仇を全員討ち果たした。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは戦線離脱する前田軍の殿軍を務め、連龍の家臣30数名が戦死した。
1584年、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が能登の末森城を囲んだ。倹約に努めていた前田家の兵は少なく、利家の妻・まつが「銭に槍を持たせればいいでしょう」と皮肉を浴びせたほどだったが、連龍の家臣が救援に駆けつけ、無事に守り切った。
戦後、単身で危険を顧みずやってきた連龍を利家は「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と激賞したという。
小田原征伐、文禄・慶長の役でも活躍し、1599年に利家が没して後はますます重きを置かれた。
利家は遺言で頼るべき人材として連龍と高山右近(たかやま・うこん)の名を挙げており、また連龍はもともと織田信長から所領安堵を受けていたため、前田家に仕えながらも与力大名にも等しい身分と見なされた。
1606年、家督を長男に譲ったが早逝してしまったため1611年に当主の座に復帰し、70歳にして大坂の陣にも出陣した。
最終的に一家臣としては破格の3万3千石もの大身に上り、1619年に連龍は74歳で没した。生涯で41度の戦に参加したと伝わる。
長家は以後も代々、前田家の家老として仕えた。