三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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新発田重家(しばた・しげいえ)
越後の人(1547~1587)
新発田家の次男に生まれたが、五十公野家を継ぎ五十公野治長(いじみの・はるなが)を名乗った。
上杉謙信に仕え川中島の戦いや関東出兵で活躍し、謙信死後の御館の乱では上杉景勝を支持し、家督相続に大いに貢献した。
1580年、兄の死により新発田家に戻り新発田重家に改名し家督を継いだ。
だが新発田家の相続を認めた他に景勝からの恩賞は無く、重家を景勝陣営に引き込んだ安田顕元(やすだ・あきもと)は景勝と重家の間で板挟みになった末、責任を取って自害した。
重家は大いに不満を募らせ、それにつけ込んだ伊達輝宗(だて・てるむね)の支援を受けて反乱を起こした。
反乱には新発田家はもちろんのこと同族の加地家、景勝と家督を争った上杉景虎(かげとら)の旧臣や支持勢力も加わり大規模な物となった。
さらに伊達家と同盟を結ぶ織田家からは柴田勝家、森長可(もり・ながよし)がこの機に乗じて西・南の二方面から侵攻を再開し、上杉家は窮地に陥った。
1582年、討伐軍も撃退されると景勝は蘆名盛隆(あしな・もりたか)に援軍を要請したが、盛隆は裏で伊達輝宗と通じており、要請に応じると見せかけ上杉領に攻め入った。
景勝は本庄繁長(ほんじょう・しげなが)に重家の相手を任せ、織田軍との戦いに専念したが6月に本能寺の変で織田信長が討たれると、織田軍は全軍撤退した。
景勝は織田軍が去り空白地となった信濃に攻め込み徳川家・北条家と対峙したため、重家との間に戦端は開かれなかった。
翌1583年、信濃を徳川家康が抑えると、景勝は重家への攻勢を強めたが、自ら出陣した放生橋の戦いで惨敗を喫し、危うく自身も討ち取られそうになった。
1584年、重家は景勝に誘い出され、その隙に水原城を落とされたが、重家はすぐさま転進し直江兼続の率いる別働隊を撃破し、城を奪回した。
新発田軍の士気は上がり、越中を治める佐々成政(さっさ・なりまさ)と連携し上杉軍の挟撃を目論んだが、同年に蘆名盛隆が痴話喧嘩から家臣に殺害されると、戦況は暗転した。
1585年、輝宗から家督を継いだ伊達政宗は同盟を破棄し蘆名領に攻め込み、対上杉を担当していた輝宗も亡くなると、重家の後ろ盾は無くなった。
さらに藤田信吉(ふじた・のぶよし)の調略によって新潟港が上杉家の手に落ちてしまい、新発田家は交易と兵糧輸送の道を断たれた。
1586年、景勝は自ら上洛し豊臣秀吉に臣従し、翌1587年に豊臣軍の援兵を受けて新発田城を大軍で囲んだ。
景勝・秀吉は再三にわたり降伏勧告を出したが、重家は頑としてこれを撥ねつけた。
補給線を断たれ兵糧もなく、支城も失った重家は城内で酒宴を催すと、それが終わるやいなや門を開き打って出た。
重家は一族でもある色部長真(いろべ・ながざね)の陣に斬り込み「親戚のよしみだ。我が首を与えよう」と言うと甲冑を脱ぎ捨て切腹して果てた。享年41。
新発田家の反乱は戦国時代でも稀な7年もの長きに及んだ。
景勝の家督相続から間もなくに起こり家中の混乱に乗じたこと、伊達・蘆名両家の支援を受けたこと、織田・最上ら周囲の勢力が上杉領に攻め込み対新発田に専念できなかったことなど理由は多々あるが、重家の武勇や地の利を活かした巧みな指揮もまた長期化に拍車を掛け、同時に上杉家衰退の引き金となったことは間違いないだろう。