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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―支倉常長  教科書でおなじみ

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戦国列伝―支倉常長  教科書でおなじみ


※アイコンは孫乾

支倉常長(はせくら・つねなが)
出羽の人(1571~1622)

伊達政宗の家臣。
名の常長は同時代の資料や本人の署名では確認されず、長経(ながつね)の名を用いたと思われる。
常長の名が現れるのは支倉家がキリシタンを匿った罪でいったん断絶し、再興してからのことであり、長経との関係を隠すため用いだしたとの説がある。

山口家に生まれたが幼少時に伯父の支倉家の養子となった。
長じると政宗のもとで文禄・慶長の役などにも出陣し活躍した。

1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの船が上総で座礁し、地元民に救助された。
徳川家康は三浦按針(みうら・あんじん)の建造したガレオン船をロドリゴに贈り、無事に帰国させたことからエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
それを受け政宗は1612年、常長を正使、エスパーニャ人の宣教師ルイス・ソテロを副使に遣欧使節団を作り、エスパーニャ経由でローマへ送り出した。
目的は通商交渉の他、エスパーニャと軍事同盟を結び、徳川幕府の打倒を狙う意図があったとされる。

一回目の出港は暴風により船が座礁したためすぐに引き返したが、翌年の二回目の船出は成功し、1615年にエスパーニャ国王、ローマ教皇に相次いで謁見がかない、アジア人では初のローマ貴族にも列した。
しかし出港後間もなく、日本国内ではキリスト教の弾圧が強まり、バテレン追放令により高山右近(たかやま・うこん)ら有力者ですら国外追放されるなどしていたため、交渉はまとまらず、常長は1620年に帰国した。

2年後、失意のうちに常長は没し、跡を継いだ嫡子の支倉常頼(つねより)も1640年、家臣がキリシタンであった責任を問われ処刑され、家名は断絶した。
しかし常長の孫の代に再興を許され、以降も伊達家に仕えたという。

常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は現存し国宝に指定されている。
それに含まれる常長の肖像画は日本人を描いた最古の油絵とされ、また資料の中で「支倉」を「FAXICVRA」と表記したことから当時はハ行を唇音で発音していた証拠となっている。

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