三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
※アイコンは馬休
津軽信枚(つがる・のぶひら)
陸奥の人(1586~1631)
陸奥津軽の大名・津軽為信(ためのぶ)の三男。
1600年、関ヶ原の戦いでは為信が東軍に、長男の津軽信建(のぶたけ)が西軍についた。
これは真田家や九鬼家のように東西両軍に分かれることで家名存続を図ったと思われる。
信枚は確たる証拠はないが、ある関ヶ原合戦図の東軍本陣に津軽家の旗印である「卍」の旗が描かれていること、戦後に為信を差し置き加増を受けていることなどから、東軍に属したと見られる。
1607年、信建と為信が相次いで没し、次兄も早くに亡くなっていたため三男ながら家督を継いだ。
父の命で兄弟揃ってキリシタンになっていたが、相続の報告と御礼のため江戸へ上った際、南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)に弟子入りし天台宗に改宗し、熱心な信徒となった。
翌1608年、妹婿の津軽建広(たけひろ)らが信建の遺児・熊千代(くまちよ)を擁し家督争いを起こした。
津軽家は改易の危機に陥ったが、信枚は天海を通じて幕府の後ろ盾を得て、改めて正式に相続し、高坂蔵人(こうさか・くらんど)に命じて建広の城を落とし、熊千代とともに追放した。
ところが1612年、高坂蔵人が信枚の寵愛する小姓を囲い込んだため、小姓と蔵人を粛清する騒動が持ち上がった。
蔵人の遺臣は反乱を起こし、一族郎党と縁者が処刑されたため、累が及ぶのを恐れた者が次々と逃亡し、津軽家の家臣は半減したという。
しかし天海を通じて得た幕府からの信頼は揺るがず、5万石にも満たない大名としては破格の五層の天守を持つ鷹岡城を築き、また天海の勧めで徳川家康の養女・満天姫(まんてん)を妻に迎え入れた。
信枚はすでに石田三成の娘で、豊臣秀吉の正室ねねの養女でもある辰姫(たつ)を正室にしていたが、側室に降格させて満天姫を正室とした。
この婚姻は豊臣家と縁戚の信枚の去就をうかがう政治的な意味合いも強く、辰姫も納得ずくのようで、上野の飛び領地に移り住んだ辰姫を、信枚は参勤交代のたびに訪ね、1619年には満天姫に先駆けて長男をもうけるなど、夫婦仲は変わらず睦まじかった。
1614年、大坂冬の陣では兵を率いて江戸に上ったが、家康から江戸城の守備を命じられた。
なお弘前藩の記録では東北の抑えとして帰国を命じられたと記されている。
1616年、家康が没し、翌年に家康を祀る日光東照宮が建立されると、信枚は鷹岡に勧請(分霊)を申し出た。天海の働きかけもあり、徳川御三家や名だたる親藩・譜代大名に先駆け許諾された。
このように幕府との関係は良好かと思われたが1619年、突如として信濃川中島10万石へと移封を命じられた。
石高こそ倍増するが先祖代々の土地を離れること、移封に莫大な費用が掛かること、また津軽に代わって入るのは無断の築城で減封となった福島正則であることなど、実質的に処罰に等しかった。
ところが内示から1ヶ月も経たないうちに話は撤回され、福島正則が信濃川中島4万5千石に移封することで決着した。
移封の理由は謎に包まれたままで、かつての家督争いや豊臣家との関係や、幕府内の派閥争いが原因とも言われており、いずれにしろ信枚や満天姫、天海らの奔走により立ち消えになったと思われる。
1627年、鷹岡城の天守が落雷で炎上し、火薬に引火し大爆発を起こし本丸を焼失した。
炎の中に信枚の伯母(為信の妻の姉)を見たという者がおり、彼女は為信に実家を乗っ取られ失意のうちに没しているため、祟りと噂された。(ちなみに妻の幼い弟らが溺死を遂げているがこれは為信による暗殺と言われている)
信枚は天海に相談し、天台密教の破邪の法から鷹岡を「弘前」に改めた。
信枚は城下町の発展に尽くし、新たに青森港を築き、後の弘前市、青森市の繁栄に寄与し1631年、江戸藩邸にて48歳で没した。
跡継ぎには正室・満天姫の子ではなく、信枚の強い意向により辰姫の子で石田三成の孫にあたる、13歳の津軽信義(のぶよし)が立てられた。
信義は暗愚と言われ、立て続けに御家騒動を2つ巻き起こしたものの、どうにか改易も減封も免れ、弘前藩は幕末まで存続した。