三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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蘆名盛隆(あしな・もりたか)
陸前の人(1561~1584)
二階堂盛義(にかいどう・もりよし)の長男。
5歳の時、父が蘆名盛氏(あしな・もりうじ)に降伏し、人質として送られた。
だが1575年、盛氏の子で当主の蘆名盛興(もりおき)が若くして没し、男子も兄弟もいなかったため、盛隆が盛興の未亡人(盛隆の叔母にあたる)を正室に迎え、蘆名家を継いだ。
1580年に盛氏が没してからは独自に采配を振るった。
1581年、盛隆は叔父の伊達輝宗(だて・てるむね)と共謀し、新発田重家(しばた・しげいえ)を上杉家から離反させた。
重家の武勇と巧みな采配、蘆名・伊達家の援助により以降7年もの長期間にわたり、上杉家を苦しめた。
当初の盛隆は陰ながら援助をするだけで、上杉家との外交は途絶えていなかったが、織田信長が上杉家を挟撃するため同盟を持ちかけ(盛隆から持ちかけたとする説も)1582年には上杉家と戦闘状態に入った。
盛隆は蘆名家当主の地位を利用し、実家の二階堂家の復権に努めた。
これに反発した蘆名家の旧来の家臣がたびたび反乱を起こし、上杉景勝も彼らを援助し揺さぶりを掛けた。
1584年には栗村盛胤(くりむら・もりたね)、松本行輔(まつもと・ゆきすけ)らが、盛隆が参詣に出た隙をつき居城の黒川城を占拠したが、翌月には奪回された。
しかし同年10月、寵愛する家臣の大庭三左衛門(おおば・さんざえもん)に襲われ、盛隆は没した。享年23。
三左衛門とは衆道の間柄にあり、痴話喧嘩の末の凶行とされる。
家督は生後1ヶ月の息子である蘆名亀王丸(かめおうまる)が継ぎ、叔父の伊達輝宗が後見したが(盛隆の母と正室は姉妹である)、それを機に伊達家の家督を譲られた伊達政宗は翌年に蘆名家との同盟を破棄。
さらに翌年には輝宗の暗殺と亀王丸の急逝が重なり、蘆名家の混乱に拍車が掛かるのであった。