三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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※アイコンは袁紹
蘆名盛氏(あしな もりうじ)
陸奥の人(1521~1580)
1537年、伊達稙宗(だて・たねむね)の娘を正室に迎え、1541年に蘆名家の家督を継いだ。
翌1542年、稙宗と嫡子の伊達晴宗(はるむね)の間で実権争いが起こると、当初は稙宗方についたが、1547年に稙宗方の田村家と衝突し、一転して晴宗に味方したため晴宗の勝利を決定づけた。
その後は北条家・武田家と結び、田村家・佐竹家と戦う。
1561年には嫡子の蘆名盛興(もりおき)に家督を譲ったが、隠居後も実権は握り続けた。
1563年、二階堂盛義(にかいどう・もりよし)を攻めると、盛義は正室の父である伊達晴宗を頼り、伊達家との関係が悪化した。
しかし1566年、二階堂盛義が嫡子の二階堂盛隆(もりたか)を人質に差し出し降伏し、一方で盛興に伊達晴宗の四女を嫁がせ伊達家との関係も修復した。
1574年、伊達家の援軍を得て田村家も従属させたが、その矢先に盛興が29歳の若さで急死した。(死因はアルコール中毒とされる)
盛興に男子はなく、盛氏も側室を持たなかったため他に男子がおらず、やむなく二階堂盛隆に盛興の未亡人をめとらせ、蘆名家を継がせた。
盛氏は後見役として権勢を振るい、積極的に出兵も続けたが、他家から迎えた当主の盛隆に家臣は反発し、長年の戦いで国力も傾きつつあり、1580年、盛氏が没した時にはすでに蘆名家は斜陽を迎えていたのであった。
~~~逸話~~~
名門・蘆名家の最盛期を築いた名将として数々の逸話が知られている。
武田信玄は優れた将として赤井直正(あかい・なおまさ)、浅井長政、盛氏、若手では徳川家康と4人の名を挙げたという。
実際に会ったことがないと思われる赤井、浅井はともかくとして近隣の大名の中で盛氏の名を唯一挙げたのは特筆すべきだろう。
盛氏は禅如(ぜんにょ)という僧侶を厚く信仰していたが、単に信心深いだけではなく、重用する家臣がしくじりを犯した時、禅如がとりなしすることで処罰を免れさせる意図があったという。
理由は不明だが側室を置かず、実子は少なかったが、家中の男児を数十名集め「不断衆」と称し、彼らの話を聞いたり見込みのある者は取り立てた。
その中に誰もが才知を認める少年がいたが、盛氏だけは評価せず、長じると少年は凡庸な人物になった。盛氏は理由を聞かれると「子供の頃から大人なら、大人の頃には老人になる。苦い物が甘くなったり、甘い物が酸っぱくなるようなものだ」と答えた。
しかし唯一の男子だった盛興の急死により他家から後継者を迎えたことで、蘆名家の衰退に拍車を掛けたのは誤算であった。
蘆名盛隆もまた23歳の若さで急死し(しかも衆道の相手に痴話喧嘩から殺された)次に家督を継いだのは生後1ヶ月の長男。それもまた3歳で没し、今度は佐竹家から跡継ぎを迎え……と盛氏の死からわずか7年で大名家としての蘆名家は滅亡するのである。
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津軽為信(つがる・ためのぶ)
陸奥の人(1550~1607)
出自には諸説あり、南部家の史料と津軽家の史料で経歴も多々食い違いがある。
久慈家か大浦家の生まれで、南部家の一族であるともいう。
1567年、大浦家の養嗣子となり家督を継いだ。
津軽家の史料によると1571年、突如として反乱を起こし、南部家当主・南部晴政(なんぶ・はるまさ)の叔父にあたる石川高信(いしかわ・たかのぶ)を攻め殺した。
晴政はこの頃、養嗣子で石川高信の子の南部信直(のぶなお)と争っており、その隙をついて為信は周囲の国人衆を攻撃して回った。信直の勢力を弱めるため、晴政が陰ながら援助したという説もある。
一方で南部家の史料では石川高信は戦死せず、1581年に病没したと記される。
為信はその後、跡を継いだ高信の次男・石川政信(まさのぶ)の側室に自分の妹を差し出し、重臣の地位に収まり、讒言で次々とライバルを放逐した。
そして1590年、妹もろとも政信を毒殺し、城を乗っ取ったとされるが、他家の史料に前述の石川高信との戦いが記される他、1590年の小田原征伐に為信が参戦した記録と食い違い、これは為信をおとしめるための南部家による工作とする説が有力である。
なお津軽家の史料によると政信は1572年に為信に敗れ戦死しており、そもそも為信に妹は存在しない。
1582年、晴政が病没し、跡を継いだ南部晴継(はるつぐ)も暴漢に襲われ謎の死を遂げた。
南部信直がその機に乗じて家督を継ぐ(晴継を暗殺した、晴継も晴政も暗殺したとする説もある)と、為信は信直の父の仇として恨まれた。
信直は九戸家に為信の討伐を命じたが、信直と家督をめぐって争っていた九戸家は従わず、反乱を恐れて身動きがとれない間に、為信はさらに勢力を拡大した。
為信は独立の大義名分を得るために中央で台頭する豊臣秀吉の許可を得ようと、何度となく上洛を目指したが南部家に阻まれた。
しかし1589年、家臣を上洛させることに成功し、切り取った津軽三郡の領有を認められた。
1590年、小田原征伐にも参戦し、秀吉に拝謁した。
南部信直も為信を反逆者として秀吉に訴え、政治的に追い落とそうと画策したが、為信が一歩先んじており、鷹狩りを好む秀吉や豊臣秀次(ひでつぐ)らに鷹を送り、また元関白・近衛前久(このえ・さきひさ)には養父が前久の祖父の落胤だという噂を利用し「実は私もあなたの祖父の落胤」と主張した。
当時の公家は窮乏しており、為信の莫大な支援金を目当てに、前久は為信を猶子とした。
為信は姓を津軽に改め、またそれ以前に前久は秀吉も猶子にしていることから、形式上は為信と秀吉は義兄弟となった。
その後の為信は豊臣家に従い、奥州征伐や文禄・慶長の役に参戦し、武功を立てた。
1600年、関ヶ原の戦いでは周辺の大名が軒並み東軍に名を連ねていたため、否応なく東軍に参戦したが、嫡子は豊臣秀頼(ひでより)の小姓として大坂城におり、また戦後には石田三成の子を保護した。
留守中に居城は反乱軍に占拠されたが、間もなく鎮圧している。
1607年、病に臥せった嫡子を見舞うため自身も病身を押して上洛したが、到着前に嫡子は没してしまい、為信もまた上洛後間もなく58歳で死去した。
死後、家督を継いだ三男と孫(嫡子の子)の間で跡目争いが起こったが、幕府の裁定により三男が家督を得た。
明治時代、居城の稲荷社の裏に為信が築かせた「館神」なる守り神が収められているという厨子が初めて開かれると、中には豊臣秀吉の木像があった。
徳川政権下において秀吉を祀るのは改易の危険すらある行為だが、それを顧みずに祀るほど、津軽家を認めてくれた秀吉への感謝の念が濃かったことがうかがえる。
※アイコンは公孫瓚
安東愛季(あんどう・ちかすえ)
出羽の人(1539~1587)
出羽の大名。
安東家は湊系と檜山系の二派に分かれ長年対立していたが、湊系の当主・安東堯季(たかすえ)はそれを解消するため、娘婿に檜山系の当主・安東舜季(きよすえ)を迎えた。そして堯季の娘と舜季の間に生まれたのが愛季である。
余談だが義父子の名の「堯・舜」は中国古代の名君から採られたものと思われ、堯から舜に譲位したこともなぞらえており、偶然の一致とは考えられず、縁組にあたって(どちらかが、または双方が)改名したのだろう。
さらに余談だが安房の大名・里見義堯(さとみ・よしたか)も「堯・舜」になぞらえ嫡子を里見義舜(よしきよ)と名付けている。
愛季は長じると文武両道に卓越した才能を示し、特に土崎港を改修して北日本最大級の港湾都市に育て上げるなど交易で莫大な富を築いた。
史料に乏しく経緯は諸説あるが、愛季の父方の檜山系が母方の湊系を吸収する形で安東家は統一された。
中央で台頭した織田信長にいち早くわたりを付け、信長の死後にはその後を継いだ豊臣秀吉にもよしみを通じるなど巧みな外交戦略も見せ、安東家の最盛期を築き、その栄華は「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と讃えられた。
またルイス・フロイスは「日本の極北に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭すこぶる長き蛮人が住む」といささか誇張気味に記している。
愛季は出羽北部の沿岸部をほぼ制圧し、内陸部にも侵攻を始めるも1587年、陣中で没した。享年49。
晩年には秋田に改姓しており、次男の秋田実季(あきた・さねすえ)は父の急死で12歳で家督を継いだが、それに不満を抱いた従兄で12歳年長の安東通季(みちすえ)が反乱を起こした。
通季は「湊系安東家の復興」を掲げ実季の十数倍の兵力を集めた。内乱に乗じて南部家、小野寺家、戸沢家も南部領に攻め込み、一方で大浦家が南部家の後方で独立を図るなど、北奥羽全体を巻き込む大乱へと発展したが、実季と家臣団は粘り強い采配で耐え抜き、通季を撃退し、南部家にいったんは奪われた領土も回復した。
その後は減封、転封や実季の戦国気質の剛直な性格を厭われ、蟄居処分なども受けたが秋田家は陸奥に落ち着き幕末まで存続した。
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蠣崎季広(かきざき・すえひろ)
蝦夷の人(1507~1595)
1545年に父が没し家督を継いだ。
父の代からアイヌと敵対していたが、季広は跡を継ぐや和睦路線に転じ、蝦夷南部の首長との和睦を結んだ。なおこれは主家の安東愛季(あんどう・ちかすえ)による命令とする説もある。
季広は13人の娘を安東家のみならず奥州各地の諸大名に嫁がせて縦横無尽に姻戚関係を作り上げ、地盤を固めた。
1583年、三男の蠣崎慶広(よしひろ)に家督を譲り(長男・次男はなんと長女に毒殺されている)やがて豊臣秀吉の直臣となり安東家から独立を果たすと、季広は「私はこれまで安東家に仕えてきたが、お前は天下の将軍の臣となった」と息子を伏し拝んで喜んだという。
慶広は秀吉の信頼を得て蝦夷の支配権も確立し、それを見届けて季広は89歳で没した。
南部信直(なんぶ・のぶなお)
陸奥の人(1546~1599)
陸奥の戦国大名。南部家26代当主。
南部家の22代当主・南部政康(まさやす)の次男・石川高信(いしかわ・たかのぶ)の庶長子として生まれた。
1565年、従兄で南部家24代当主・南部晴政(はるまさ)に男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子の座についた。
義父子の関係は当初は良好で、安東愛季(あんどう・ちかすえ)との領土争いでもともに戦ったが、1570年、晴政に待望の男子・南部晴継(はるつぐ)が生まれると、晴政は実子に跡を継がせたいと考え、信直との関係は悪化した。
1571年、南部一族の大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、石川高信を殺し津軽とその周辺を制圧した。(晴政が石川家の力を弱めるため扇動したとの説もある)
晴政は信直との確執から兵を出そうとせず、信直は単身で討伐軍を差し向けたが敗北した。
1572年、晴政は参拝中の信直を自ら襲撃した。しかし返り討ちにあい、信直の銃撃により晴政は落馬し、それを助けに行った晴政の次女の婿である九戸実親(くのへ・さねちか)も撃たれたというが、これは出典からやや怪しい記述ではある。
1576年、信直の正室(晴政の長女)が没すると、信直はいよいよ身の危険を感じ、養嗣子の座を辞退した。さらに暗殺を恐れて居城を出て北信愛(きた・のぶちか)ら支持する重臣の間を転々としたため、南部家は晴政・九戸家と信直・北家らの間で内部分裂の様相をていした。
1582年、晴政が病没し南部晴継が家督を継いだが、同年に正体不明の暴徒に襲われ死亡した。(信直による暗殺とも、急病とも伝わり、晴政・晴継はともに信直によって1572年に暗殺され、10年の間、死亡を秘匿したという説まである)
南部家の一族・重臣らは議論を重ね、信直が当主に決まったものの、対抗馬として推された九戸実親の兄・九戸政実(まさざね)はそれに不満を抱き、後には自らが当主であると主張し出し、家中に大きな亀裂が生じた。
1590年、信直は大浦為信が留守にした隙をつき津軽に侵攻した。しかし激しい抵抗と大雪に阻まれ、さらに豊臣秀吉から小田原征伐に加わるよう命令が届いたためやむなく撤退した。
信直は秀吉から所領安堵の保証を得たが、大浦為信が先手を打って津軽の所領安堵を秀吉から許されており、津軽奪回の道は閉ざされた。
1591年、奥州での大規模な一揆に加え九戸政実が反乱すると、信直はそれを単独では鎮圧できず、秀吉に討伐軍の派遣を願い出た。
九戸政実は討伐軍に間もなく討たれ、これにより実質的に秀吉の天下統一は果たされた。
信直は討伐軍に津軽為信が加わっているのを知ると、彼を父の仇として成敗したいと浅野長政(あさの・ながまさ)に許可を求めたが却下され、長政は為信に早く領地に帰るよう命じ、また南部家には津軽の代わりに二郡が与えられたという。
その後は領地を接するようになった伊達政宗を警戒し盛岡に居城を移し、領内の統治に専心した。
秀吉が没するといち早く徳川家康に接近し、信直は1599年に没したが跡を継いだ長男の南部利直(としなお)は徳川方につき、盛岡藩の基礎を築き、南部家は明治期に華族となり、現代まで続いた。
南部晴政(なんぶ・はるまさ)
陸奥の人(1517~1582)
陸奥の戦国大名。「三日月の 丸くなるまで 南部領」とうたわれるほど広大な領土を有し南部家の最盛期を築いた。
25歳で家督を継ぎ、分裂していた南部家を統一した。家系図に不審な点が多いことから、もともと分家だった晴政が宗家を破り、系図を書き換えて自分こそが宗家だと主張したと見られるが、いずれにしろ戦国大名としての南部家が晴政から始まったのは確かである。
1565年、男子がいなかったため叔父・石川高信(いしかわ・たかのぶ)の子の南部信直(のぶなお)を長女の婿に迎えた。
義父子の関係は当初は良好で、安東愛季(あんどう・ちかすえ)との領土争いでもともに戦ったが、1570年、晴政に待望の男子・南部晴継(はるつぐ)が生まれると、晴政は実子に跡を継がせたいと考え、信直との関係は悪化した。
1571年、南部一族の大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、石川高信を殺し津軽とその周辺を制圧した。(晴政が石川家の力を弱めるため扇動したとの説もある)
晴政は信直との確執から兵を出そうとせず、信直は単身で討伐軍を差し向けたが敗北した。
1572年、晴政は参拝中の信直を自ら襲撃した。しかし返り討ちにあい、信直の銃撃により晴政は落馬し、それを助けに行った晴政の次女の婿である九戸実親(くのへ・さねちか)も撃たれたというが、これは出典からやや怪しい記述ではある。
1576年、信直の正室(晴政の長女)が没すると、信直はいよいよ身の危険を感じ、養嗣子の座を辞退した。さらに暗殺を恐れて居城を出て北信愛(きた・のぶちか)ら支持する重臣の間を転々としたため、南部家は晴政・九戸家と信直・北家らの間で内部分裂の様相をていした。
1582年、晴政は病没した。
家督は南部晴継が継いだが、同年に正体不明の暴徒に襲われ死亡した(信直による暗殺とも、急病とも伝わる)ため、結局は信直が継いだ。
また晴政・晴継はともに信直によって1572年に暗殺され、10年の間、死亡を秘匿したという説もある。
鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな)
出羽の人(1563?~1646)
最上家に仕えた猛将。もともとは近江佐々木家の一族で、小野寺家に仕えていたが、父の代に大宝寺家に敗れて鮭延に逃れ、姓を改めた。また幼い頃の秀綱は一時期、大宝寺家に捕らわれ小姓として仕えたという。
1581年、最上家の軍師・氏家守棟(うじいえ・もりむね)に調略され降伏すると、徐々に頭角を現した。
1600年、長谷堂城が上杉家の2万の大軍に包囲されると、志村光安(しむら・あきやす)とともに防衛し、秀綱はわずかな兵で打って出てはたびたび上杉軍を撃破し、ついに関ヶ原で西軍が敗れた影響により上杉軍が撤退するまで守り抜いた。
相対した直江兼続は「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と感嘆し、後に敵ながら褒美まで与えたという。
1617年、最上義光(もがみ・よしあき)の孫でわずか13歳の最上義俊(よしとし)が家督を継いだことに反対し、義光の四男・山野辺義忠(やまのべ・よしただ)を擁立したため最上家は内部分裂を起こした。
この「最上騒動」により最上家は近江1万石へと改易され、秀綱も責任を問われ土井利勝(どい・としかつ)のもとに預けられた。
その後は土井家に仕えたが、与えられた知行はすべて旧臣に分け与え、自身は家臣のもとを転々としたとも伝わる。
延沢満延(のべさわ・みつのぶ)
出羽の人(1544~1591)
最上家。姓は野辺沢と書くこともある。
延沢家は天童家を盟主とする「最上八楯」の一家で、当初は最上義守(もがみ・よしもり)方に付いたため、その嫡子で父と反目する最上義光(よしあき)とは敵対した。
中でも満延の武勇は飛び抜けており、義光は「最上八楯」を破るには満延を引き抜くしかないと考え、軍師・氏家守棟(うじいえ・もりむね)を通じ自分の娘を満延の息子に嫁がせた。
満延は降伏の条件として「最上八楯」盟主の天童頼澄(てんどう・よりすみ)の助命を申し出、義光もそれを受け入れた。
満延を失った「最上八楯」は各個撃破されたが、天童頼澄は約定通り見逃され、後に伊達家に仕えた。
ある時、義光は満延の怪力を試そうと、力自慢の家臣7~8人に不意に飛びかからせたが、満延は簡単に振り払った。
驚いた義光は太さ2尺ほどの桜の木に登って逃げようとしたが、それを満延が捕まえ引っ張ると、両者がもみ合ううちに桜の木は根から引き抜かれ、倒れてしまったという。
義光自身も怪力で、現存する義光が使ったという指揮棒は一般的な刀の実に2倍もの重さがあり、両者の力が合わさればありえない話ではなかろう。
しかし最上家ではその武勇を存分に発揮する前に、義光に従い上洛した際に病に倒れ、48歳で没した。
最上義守(もがみ・よしもり)
出羽の人(1520~1590)
最上家の当主。
1520年、当主だった大伯父の最上義定(よしさだ)が没すると、嗣子がいないのをいいことに義兄の伊達稙宗(だて・たねむね)は実権を掌握し、わずか2歳の義守を擁立し傀儡政権を築いた。
だが1542年、伊達稙宗と子の伊達晴宗(はるむね)の間で争いが起きるとその隙に乗じ、重臣の氏家定直(うじいえ・さだなお)らに助けられ独立を果たした。
当初は稙宗方についたものの劣勢と見るや晴宗方に鞍替えするなどうまく立ち回り、徐々に力を蓄えていった。
1570年頃、嫡子の最上義光(よしあき)との仲が険悪になり、たがいに刺客を送り合うほどだった。
氏家定直の仲裁でどうにか和解し、家督も義光に譲ると、義守は重病により危篤状態となった。
義光と伊達家当主・伊達輝宗(てるむね)、輝宗に嫁いでいた娘の義姫(よし)を臨終の床に呼び寄せ、義兄弟で仲良く事にあたるよう告げたものの、それで安堵したのか義守はすっかり快復してしまい、義光はさては父の謀略だったかと考え、再び父子の仲は険悪化した。
1574年、伊達家との同盟破棄も視野に入れていた義光を警戒する伊達輝宗の兵を招き入れ、ついに父子は衝突した。
最上家は内部分裂しかけたが、義姫が義光・輝宗両軍の対峙する間に輿を乗り付けると「なぜ醜い兄弟喧嘩をするのか」と両者を叱責したため、伊達・最上両家に強い影響力を持つ義姫の意向を無視できず和議を結ぶにいたった。
その後も暗闘は続いたが、晩年には父子は和解し、義守が再び危篤に陥ると義光は病気治癒の祈祷を大々的に行い、ついに没すると義光は豊臣秀吉の小田原征伐への招集も「父の葬儀を行うため」と断りを入れ、大幅に遅参した。
招集を渋り家名取り潰しされかけた伊達政宗(輝宗と義姫の嫡子である)よりも到着は遅れ、徳川家康のとりなしもあり、お咎め無しとなったものの、危険も顧みずに父の葬儀を優先した義光とは、完全に和解していたと見るべきだろう。