三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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南部信直(なんぶ・のぶなお)
陸奥の人(1546~1599)
陸奥の戦国大名。南部家26代当主。
南部家の22代当主・南部政康(まさやす)の次男・石川高信(いしかわ・たかのぶ)の庶長子として生まれた。
1565年、従兄で南部家24代当主・南部晴政(はるまさ)に男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子の座についた。
義父子の関係は当初は良好で、安東愛季(あんどう・ちかすえ)との領土争いでもともに戦ったが、1570年、晴政に待望の男子・南部晴継(はるつぐ)が生まれると、晴政は実子に跡を継がせたいと考え、信直との関係は悪化した。
1571年、南部一族の大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、石川高信を殺し津軽とその周辺を制圧した。(晴政が石川家の力を弱めるため扇動したとの説もある)
晴政は信直との確執から兵を出そうとせず、信直は単身で討伐軍を差し向けたが敗北した。
1572年、晴政は参拝中の信直を自ら襲撃した。しかし返り討ちにあい、信直の銃撃により晴政は落馬し、それを助けに行った晴政の次女の婿である九戸実親(くのへ・さねちか)も撃たれたというが、これは出典からやや怪しい記述ではある。
1576年、信直の正室(晴政の長女)が没すると、信直はいよいよ身の危険を感じ、養嗣子の座を辞退した。さらに暗殺を恐れて居城を出て北信愛(きた・のぶちか)ら支持する重臣の間を転々としたため、南部家は晴政・九戸家と信直・北家らの間で内部分裂の様相をていした。
1582年、晴政が病没し南部晴継が家督を継いだが、同年に正体不明の暴徒に襲われ死亡した。(信直による暗殺とも、急病とも伝わり、晴政・晴継はともに信直によって1572年に暗殺され、10年の間、死亡を秘匿したという説まである)
南部家の一族・重臣らは議論を重ね、信直が当主に決まったものの、対抗馬として推された九戸実親の兄・九戸政実(まさざね)はそれに不満を抱き、後には自らが当主であると主張し出し、家中に大きな亀裂が生じた。
1590年、信直は大浦為信が留守にした隙をつき津軽に侵攻した。しかし激しい抵抗と大雪に阻まれ、さらに豊臣秀吉から小田原征伐に加わるよう命令が届いたためやむなく撤退した。
信直は秀吉から所領安堵の保証を得たが、大浦為信が先手を打って津軽の所領安堵を秀吉から許されており、津軽奪回の道は閉ざされた。
1591年、奥州での大規模な一揆に加え九戸政実が反乱すると、信直はそれを単独では鎮圧できず、秀吉に討伐軍の派遣を願い出た。
九戸政実は討伐軍に間もなく討たれ、これにより実質的に秀吉の天下統一は果たされた。
信直は討伐軍に津軽為信が加わっているのを知ると、彼を父の仇として成敗したいと浅野長政(あさの・ながまさ)に許可を求めたが却下され、長政は為信に早く領地に帰るよう命じ、また南部家には津軽の代わりに二郡が与えられたという。
その後は領地を接するようになった伊達政宗を警戒し盛岡に居城を移し、領内の統治に専心した。
秀吉が没するといち早く徳川家康に接近し、信直は1599年に没したが跡を継いだ長男の南部利直(としなお)は徳川方につき、盛岡藩の基礎を築き、南部家は明治期に華族となり、現代まで続いた。