三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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南部晴政(なんぶ・はるまさ)
陸奥の人(1517~1582)
陸奥の戦国大名。「三日月の 丸くなるまで 南部領」とうたわれるほど広大な領土を有し南部家の最盛期を築いた。
25歳で家督を継ぎ、分裂していた南部家を統一した。家系図に不審な点が多いことから、もともと分家だった晴政が宗家を破り、系図を書き換えて自分こそが宗家だと主張したと見られるが、いずれにしろ戦国大名としての南部家が晴政から始まったのは確かである。
1565年、男子がいなかったため叔父・石川高信(いしかわ・たかのぶ)の子の南部信直(のぶなお)を長女の婿に迎えた。
義父子の関係は当初は良好で、安東愛季(あんどう・ちかすえ)との領土争いでもともに戦ったが、1570年、晴政に待望の男子・南部晴継(はるつぐ)が生まれると、晴政は実子に跡を継がせたいと考え、信直との関係は悪化した。
1571年、南部一族の大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、石川高信を殺し津軽とその周辺を制圧した。(晴政が石川家の力を弱めるため扇動したとの説もある)
晴政は信直との確執から兵を出そうとせず、信直は単身で討伐軍を差し向けたが敗北した。
1572年、晴政は参拝中の信直を自ら襲撃した。しかし返り討ちにあい、信直の銃撃により晴政は落馬し、それを助けに行った晴政の次女の婿である九戸実親(くのへ・さねちか)も撃たれたというが、これは出典からやや怪しい記述ではある。
1576年、信直の正室(晴政の長女)が没すると、信直はいよいよ身の危険を感じ、養嗣子の座を辞退した。さらに暗殺を恐れて居城を出て北信愛(きた・のぶちか)ら支持する重臣の間を転々としたため、南部家は晴政・九戸家と信直・北家らの間で内部分裂の様相をていした。
1582年、晴政は病没した。
家督は南部晴継が継いだが、同年に正体不明の暴徒に襲われ死亡した(信直による暗殺とも、急病とも伝わる)ため、結局は信直が継いだ。
また晴政・晴継はともに信直によって1572年に暗殺され、10年の間、死亡を秘匿したという説もある。