三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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津軽為信(つがる・ためのぶ)
陸奥の人(1550~1607)
出自には諸説あり、南部家の史料と津軽家の史料で経歴も多々食い違いがある。
久慈家か大浦家の生まれで、南部家の一族であるともいう。
1567年、大浦家の養嗣子となり家督を継いだ。
津軽家の史料によると1571年、突如として反乱を起こし、南部家当主・南部晴政(なんぶ・はるまさ)の叔父にあたる石川高信(いしかわ・たかのぶ)を攻め殺した。
晴政はこの頃、養嗣子で石川高信の子の南部信直(のぶなお)と争っており、その隙をついて為信は周囲の国人衆を攻撃して回った。信直の勢力を弱めるため、晴政が陰ながら援助したという説もある。
一方で南部家の史料では石川高信は戦死せず、1581年に病没したと記される。
為信はその後、跡を継いだ高信の次男・石川政信(まさのぶ)の側室に自分の妹を差し出し、重臣の地位に収まり、讒言で次々とライバルを放逐した。
そして1590年、妹もろとも政信を毒殺し、城を乗っ取ったとされるが、他家の史料に前述の石川高信との戦いが記される他、1590年の小田原征伐に為信が参戦した記録と食い違い、これは為信をおとしめるための南部家による工作とする説が有力である。
なお津軽家の史料によると政信は1572年に為信に敗れ戦死しており、そもそも為信に妹は存在しない。
1582年、晴政が病没し、跡を継いだ南部晴継(はるつぐ)も暴漢に襲われ謎の死を遂げた。
南部信直がその機に乗じて家督を継ぐ(晴継を暗殺した、晴継も晴政も暗殺したとする説もある)と、為信は信直の父の仇として恨まれた。
信直は九戸家に為信の討伐を命じたが、信直と家督をめぐって争っていた九戸家は従わず、反乱を恐れて身動きがとれない間に、為信はさらに勢力を拡大した。
為信は独立の大義名分を得るために中央で台頭する豊臣秀吉の許可を得ようと、何度となく上洛を目指したが南部家に阻まれた。
しかし1589年、家臣を上洛させることに成功し、切り取った津軽三郡の領有を認められた。
1590年、小田原征伐にも参戦し、秀吉に拝謁した。
南部信直も為信を反逆者として秀吉に訴え、政治的に追い落とそうと画策したが、為信が一歩先んじており、鷹狩りを好む秀吉や豊臣秀次(ひでつぐ)らに鷹を送り、また元関白・近衛前久(このえ・さきひさ)には養父が前久の祖父の落胤だという噂を利用し「実は私もあなたの祖父の落胤」と主張した。
当時の公家は窮乏しており、為信の莫大な支援金を目当てに、前久は為信を猶子とした。
為信は姓を津軽に改め、またそれ以前に前久は秀吉も猶子にしていることから、形式上は為信と秀吉は義兄弟となった。
その後の為信は豊臣家に従い、奥州征伐や文禄・慶長の役に参戦し、武功を立てた。
1600年、関ヶ原の戦いでは周辺の大名が軒並み東軍に名を連ねていたため、否応なく東軍に参戦したが、嫡子は豊臣秀頼(ひでより)の小姓として大坂城におり、また戦後には石田三成の子を保護した。
留守中に居城は反乱軍に占拠されたが、間もなく鎮圧している。
1607年、病に臥せった嫡子を見舞うため自身も病身を押して上洛したが、到着前に嫡子は没してしまい、為信もまた上洛後間もなく58歳で死去した。
死後、家督を継いだ三男と孫(嫡子の子)の間で跡目争いが起こったが、幕府の裁定により三男が家督を得た。
明治時代、居城の稲荷社の裏に為信が築かせた「館神」なる守り神が収められているという厨子が初めて開かれると、中には豊臣秀吉の木像があった。
徳川政権下において秀吉を祀るのは改易の危険すらある行為だが、それを顧みずに祀るほど、津軽家を認めてくれた秀吉への感謝の念が濃かったことがうかがえる。