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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―最上義守  父も曲者

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戦国列伝―最上義守  父も曲者



最上義守(もがみ・よしもり)
出羽の人(1520~1590)

最上家の当主。
1520年、当主だった大伯父の最上義定(よしさだ)が没すると、嗣子がいないのをいいことに義兄の伊達稙宗(だて・たねむね)は実権を掌握し、わずか2歳の義守を擁立し傀儡政権を築いた。

だが1542年、伊達稙宗と子の伊達晴宗(はるむね)の間で争いが起きるとその隙に乗じ、重臣の氏家定直(うじいえ・さだなお)らに助けられ独立を果たした。
当初は稙宗方についたものの劣勢と見るや晴宗方に鞍替えするなどうまく立ち回り、徐々に力を蓄えていった。

1570年頃、嫡子の最上義光(よしあき)との仲が険悪になり、たがいに刺客を送り合うほどだった。
氏家定直の仲裁でどうにか和解し、家督も義光に譲ると、義守は重病により危篤状態となった。
義光と伊達家当主・伊達輝宗(てるむね)、輝宗に嫁いでいた娘の義姫(よし)を臨終の床に呼び寄せ、義兄弟で仲良く事にあたるよう告げたものの、それで安堵したのか義守はすっかり快復してしまい、義光はさては父の謀略だったかと考え、再び父子の仲は険悪化した。

1574年、伊達家との同盟破棄も視野に入れていた義光を警戒する伊達輝宗の兵を招き入れ、ついに父子は衝突した。
最上家は内部分裂しかけたが、義姫が義光・輝宗両軍の対峙する間に輿を乗り付けると「なぜ醜い兄弟喧嘩をするのか」と両者を叱責したため、伊達・最上両家に強い影響力を持つ義姫の意向を無視できず和議を結ぶにいたった。

その後も暗闘は続いたが、晩年には父子は和解し、義守が再び危篤に陥ると義光は病気治癒の祈祷を大々的に行い、ついに没すると義光は豊臣秀吉の小田原征伐への招集も「父の葬儀を行うため」と断りを入れ、大幅に遅参した。
招集を渋り家名取り潰しされかけた伊達政宗(輝宗と義姫の嫡子である)よりも到着は遅れ、徳川家康のとりなしもあり、お咎め無しとなったものの、危険も顧みずに父の葬儀を優先した義光とは、完全に和解していたと見るべきだろう。

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