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夢想大蛇

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戦国列伝―伊達政宗  独眼竜の野望

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戦国列伝―伊達政宗  独眼竜の野望



伊達政宗(だて・まさむね)
出羽の人(1567~1636)

伊達家当主・伊達輝宗(てるむね)と最上義光(もがみ・よしあき)の妹・義姫(よし)の嫡子。
幼少期に疱瘡(天然痘)を患い右目の視力を失ったため「独眼竜」と呼ばれた。
だが「親にもらった身体を損なったのは親不孝である」という政宗の意向から死後に作られた銅像や肖像画には右目が小さく描かれている。

1584年、父の輝宗は生後1ヶ月の甥が当主を務める蘆名家を取り仕切り、宿敵の上杉家への対策に専念するため隠居し、18歳の政宗に家督を譲った。
政宗は手始めに大内家を攻めると、見せしめのため城中の者を撫で斬り(皆殺し)にした。大内家の同盟者の二本松義継(にほんまつ・よしつぐ)は震え上がり、輝宗の仲介で伊達家と和睦を結んだが、政宗は所領を大幅に没収する強硬姿勢を見せた。
不満を抱いた義継は輝宗を拉致したが、追撃した政宗に父は「俺ごと撃て」と命令しともに射殺された。
この事件には諸説あり、義継は政宗を殺そうとしたが不穏な空気を察した輝宗がかばった、義継が暗殺されると誤解し発作的に犯行に及んだ、義継が先に輝宗を殺した、鷹狩中にそのまま急行した政宗が鉄砲隊を率いていたのは不自然で政宗による父の暗殺である、など多岐にわたるが真相は藪の中である。

政宗は初七日法要を終えるや弔い合戦として二本松家を攻めたが、宿敵・佐竹家の率いる南奥州連合軍3万が救援に駆けつけ、人取橋の戦いで大敗を喫した。
1588年、大崎家を攻めるが反乱により敗北し、さらに最上義光がその機に乗じて伊達領に攻め込んだ。政宗は一転して窮地に立たされたが、母・義姫が両軍の対峙する真ん中に輿を乗り付け停戦を懇願すると、義光は両家に絶大な影響力を持つ妹を無視できず、また自分の子らが義姫に懐くのを見ると虚しさを覚え、やむなく兵を退いた。
この頃、豊臣秀吉は関東・東北の大名に戦を禁じていたが、政宗はそれを無視して領土拡大を続行した。
対する佐竹家は秀吉を恐れて奥州情勢への介入を控えており、佐竹方から伊達方へと鞍替えする大名が多く現れた。
1589年、相次ぐ当主の早逝により佐竹家から当主を迎えていた蘆名家を摺上原の戦いで破り、滅亡に追い込んだ。

1590年、秀吉は小田原征伐のため全国の大名に参戦命令を発した。
政宗は以前から再三にわたり上洛命令を黙殺しており、この時も大いに渋ったが、片倉景綱(かたくら・かげつな)ら腹心の説得もあり遅参したものの秀吉のもとへ赴いた。
その際には死に装束で磔刑用の十字架を背負って現れ、前田利家の詰問を受けると逆に千利休に師事したいと申し出るなど堂々とした態度を見せ、派手好みの秀吉を喜ばせ、会津は没収されたものの家督相続時に等しい72万石を安堵された。

翌1591年、葛西大崎一揆を平定したが、直後に一揆を扇動したのが他ならぬ政宗だという疑惑が持ち上がった。
政宗は本物の書状には偽造防止のため花押に針で穴を開けており、一揆勢に宛てた書状には穴が無くこれは偽物であると自ら弁明し赦免されたが、結果として58万石へ減封され、実質的には秀吉にも扇動の首謀者と目されていたと思われる。
なお現存する本物の書状に針穴が開いた物は一つもない。

またこの頃、母の義姫に毒殺されそうになり、報復に母の寵愛する弟の伊達小次郎(こじろう)を殺し、義姫は実家の最上家に帰ったという逸話が広く知られているが、その後も政宗と義姫が親しくやりとりした手紙が多く見つかり、また義姫が実家に帰ったのも4年後と明らかになり事実とは考えられず、出奔した理由も逸話とは逆に義姫が政宗の非道な振る舞いに激怒したため、とする説も有力視されている。

1593年、文禄の役に参戦した。政宗は豪華絢爛な装備をあつらえさせたため見物の民衆から人気を博し、もともとあった「男だて」という言葉から派手な着こなしをした人を「伊達者」と呼ぶようになった。
伊達家は普請を免除されていたが、政宗は兵糧の支給も断り自腹で築城させるなど献身的に振る舞った。

1595年、豊臣秀次(ひでつぐ)が謀叛の疑いを掛けられ切腹を命じられると、秀次に嫁ぐ直前だった最上義光の娘も連座して処刑された。
政宗も先の葛西大崎一揆の扇動からこの時も嫌疑を掛けられたが、家臣の直訴と「また叛意を疑われたら即座に隠居する」ことを条件に許された。
これらのことから豊臣家への反感が募り、秀吉の死後には諸大名の無許可の婚姻を禁じる遺言を無視し、長女と徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいら・ただてる)をめあわせた。

1600年、家康は関ヶ原の戦いに際して政宗に、かつて没収され今は上杉家が治める旧領の切り取り自由の許諾を与え、味方につけた。
上杉家は最上家の長谷堂城を攻めたが、守る志村光安(しむら・あきやす)らは4倍の敵を相手に持ちこたえた。
政宗は救援を要請されたが3千の兵しか出さず様子をうかがい、関ヶ原で家康が勝利し上杉軍が撤退にかかると、喜び勇んで上杉領に攻め込んだ。
だが本庄繁長(ほんじょう・しげなが)の守る福島城を落とせずわずか2万石の奪回に留まり、しかも東軍についた南部家の領内に一揆を扇動し、一揆勢に援軍まで出していた事実が発覚し、戦後の加増は無かった。それでも石高は前田家、島津家に次ぐ第3位である。
翌年、政宗は仙台城を築くと居城を移し、城下町の開発を進めた。
1613年には太平洋貿易のためスペイン国王の協力を得てガレオン船を建造し、支倉常長(はせくら・つねなが)らを欧州に派遣したが、彼らの帰国前にキリスト教は禁教となり、交渉は決裂した。
また貿易だけではなくスペインの援軍を得て家康と戦う意図もあり、徳川家との戦を想定した図上演習をしていたという。

1615年、大坂夏の陣では後藤又兵衛(ごとう・またべえ)軍を撃破した。その際、片倉景綱の子・重綱(しげつな)が又兵衛を負傷させ戦闘不能にし、自害に追い込んだとされる。
伊達軍はさらに進軍したが真田幸村の反撃にあうとすぐさま撤退し、先鋒を率いる水野勝成(みずの・かつしげ)の要請も無視して兵を動かさなかった。
それどころか水野家の兵を襲って馬を奪い、激怒した勝成に報復されるという同士討ちまで演じ、幸村には「関東勢は百万と言えども男は一人もいない」と嘲笑されたという。
なお水野家との同士討ちには、勝成の指揮下にあった神保家の兵300人を殲滅し「神保軍が敗北し総崩れになっていたので、それに巻き込まれるのを防ぐためやむなく処分した」と政宗は開き直った、との異説もある。

乱世が終結すると政宗は領国経営に専念し仙台を大いに発展させた。
一方で多くの趣味に私財を投じ、特に現在も仙台名物として知られるずんだ餅、凍り豆腐、笹かまぼこを自ら考案するなど、当時は男子が携わることはきわめて稀だった料理に熱心であった。
また能は自ら太鼓の名人に師事し秀吉や家康に腕前を披露した。晩年には毎年3万石もの巨費を能に投じていたとされる。

家康死後の徳川家との関係は良好で、ある時、2代将軍・徳川秀忠を饗応した際に秀忠の家臣が毒殺を危ぶみ、政宗に毒味をするよう言うと「この政宗が毒殺などと姑息な真似をするか。謀叛するなら堂々と正面から戦を挑む」と気色ばみ、かえって秀忠を感心させた。
また秀忠は臨終の床で政宗に「かつて父(家康)は死の床に伏せると、後顧の憂いを断つため病を押して伊達家を討伐する軍を起こそうとしていた」と明かしたという。
秀忠の子で3代将軍・徳川家光には「伊達の親父殿」と呼ばれるほど重用され、家光が参勤交代を発令し「今後は諸大名を家臣として遇する」と命じると政宗がいち早く臣下の礼を取り「命令に背く者は私が討伐します」と申し出るなど忠誠心を示し諸大名を牽制した。

1636年、70歳で没した。死因は食道癌と見られる。
死の3日前に家光が見舞いに訪れた際には行水して身を清め矍鑠として出迎え、臨終の際には妻子に死に顔を見せなかったといい、最期まで「伊達男」であり続けた。
家光は病気平癒の祈願を江戸中の寺社に命じるなどし、没すると実父を亡くした時よりも嘆き悲しみ、外様大名としては異例の服喪まで発布したという。

以降も伊達家は伊予宇和島などに分家を立てられた他、徳川家から正室を迎えるなど別格の扱いを受けた。
明治期には戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられ大減封の憂き目にあったが、華族令により爵位は得られた。

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