三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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伊達家当主・伊達輝宗(てるむね)と最上義光(もがみ・よしあき)の妹・義姫(よし)の嫡子。
幼少期に疱瘡(天然痘)を患い右目の視力を失ったため「独眼竜」と呼ばれた。
だが「親にもらった身体を損なったのは親不孝である」という政宗の意向から死後に作られた銅像や肖像画には右目が小さく描かれている。
1584年、父の輝宗は生後1ヶ月の甥が当主を務める蘆名家を取り仕切り、宿敵の上杉家への対策に専念するため隠居し、18歳の政宗に家督を譲った。
政宗は手始めに大内家を攻めると、見せしめのため城中の者を撫で斬り(皆殺し)にした。大内家の同盟者の二本松義継(にほんまつ・よしつぐ)は震え上がり、輝宗の仲介で伊達家と和睦を結んだが、政宗は所領を大幅に没収する強硬姿勢を見せた。
不満を抱いた義継は輝宗を拉致したが、追撃した政宗に父は「俺ごと撃て」と命令しともに射殺された。
この事件には諸説あり、義継は政宗を殺そうとしたが不穏な空気を察した輝宗がかばった、義継が暗殺されると誤解し発作的に犯行に及んだ、義継が先に輝宗を殺した、鷹狩中にそのまま急行した政宗が鉄砲隊を率いていたのは不自然で政宗による父の暗殺である、など多岐にわたるが真相は藪の中である。
政宗は初七日法要を終えるや弔い合戦として二本松家を攻めたが、宿敵・佐竹家の率いる南奥州連合軍3万が救援に駆けつけ、人取橋の戦いで大敗を喫した。
1588年、大崎家を攻めるが反乱により敗北し、さらに最上義光がその機に乗じて伊達領に攻め込んだ。政宗は一転して窮地に立たされたが、母・義姫が両軍の対峙する真ん中に輿を乗り付け停戦を懇願すると、義光は両家に絶大な影響力を持つ妹を無視できず、また自分の子らが義姫に懐くのを見ると虚しさを覚え、やむなく兵を退いた。
この頃、豊臣秀吉は関東・東北の大名に戦を禁じていたが、政宗はそれを無視して領土拡大を続行した。
対する佐竹家は秀吉を恐れて奥州情勢への介入を控えており、佐竹方から伊達方へと鞍替えする大名が多く現れた。
1589年、相次ぐ当主の早逝により佐竹家から当主を迎えていた蘆名家を摺上原の戦いで破り、滅亡に追い込んだ。
1590年、秀吉は小田原征伐のため全国の大名に参戦命令を発した。
政宗は以前から再三にわたり上洛命令を黙殺しており、この時も大いに渋ったが、片倉景綱(かたくら・かげつな)ら腹心の説得もあり遅参したものの秀吉のもとへ赴いた。
その際には死に装束で磔刑用の十字架を背負って現れ、前田利家の詰問を受けると逆に千利休に師事したいと申し出るなど堂々とした態度を見せ、派手好みの秀吉を喜ばせ、会津は没収されたものの家督相続時に等しい72万石を安堵された。
翌1591年、葛西大崎一揆を平定したが、直後に一揆を扇動したのが他ならぬ政宗だという疑惑が持ち上がった。
政宗は本物の書状には偽造防止のため花押に針で穴を開けており、一揆勢に宛てた書状には穴が無くこれは偽物であると自ら弁明し赦免されたが、結果として58万石へ減封され、実質的には秀吉にも扇動の首謀者と目されていたと思われる。
なお現存する本物の書状に針穴が開いた物は一つもない。
またこの頃、母の義姫に毒殺されそうになり、報復に母の寵愛する弟の伊達小次郎(こじろう)を殺し、義姫は実家の最上家に帰ったという逸話が広く知られているが、その後も政宗と義姫が親しくやりとりした手紙が多く見つかり、また義姫が実家に帰ったのも4年後と明らかになり事実とは考えられず、出奔した理由も逸話とは逆に義姫が政宗の非道な振る舞いに激怒したため、とする説も有力視されている。
1593年、文禄の役に参戦した。政宗は豪華絢爛な装備をあつらえさせたため見物の民衆から人気を博し、もともとあった「男だて」という言葉から派手な着こなしをした人を「伊達者」と呼ぶようになった。
伊達家は普請を免除されていたが、政宗は兵糧の支給も断り自腹で築城させるなど献身的に振る舞った。
1595年、豊臣秀次(ひでつぐ)が謀叛の疑いを掛けられ切腹を命じられると、秀次に嫁ぐ直前だった最上義光の娘も連座して処刑された。
政宗も先の葛西大崎一揆の扇動からこの時も嫌疑を掛けられたが、家臣の直訴と「また叛意を疑われたら即座に隠居する」ことを条件に許された。
これらのことから豊臣家への反感が募り、秀吉の死後には諸大名の無許可の婚姻を禁じる遺言を無視し、長女と徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいら・ただてる)をめあわせた。
1600年、家康は関ヶ原の戦いに際して政宗に、かつて没収され今は上杉家が治める旧領の切り取り自由の許諾を与え、味方につけた。
上杉家は最上家の長谷堂城を攻めたが、守る志村光安(しむら・あきやす)らは4倍の敵を相手に持ちこたえた。
政宗は救援を要請されたが3千の兵しか出さず様子をうかがい、関ヶ原で家康が勝利し上杉軍が撤退にかかると、喜び勇んで上杉領に攻め込んだ。
だが本庄繁長(ほんじょう・しげなが)の守る福島城を落とせずわずか2万石の奪回に留まり、しかも東軍についた南部家の領内に一揆を扇動し、一揆勢に援軍まで出していた事実が発覚し、戦後の加増は無かった。それでも石高は前田家、島津家に次ぐ第3位である。
翌年、政宗は仙台城を築くと居城を移し、城下町の開発を進めた。
1613年には太平洋貿易のためスペイン国王の協力を得てガレオン船を建造し、支倉常長(はせくら・つねなが)らを欧州に派遣したが、彼らの帰国前にキリスト教は禁教となり、交渉は決裂した。
また貿易だけではなくスペインの援軍を得て家康と戦う意図もあり、徳川家との戦を想定した図上演習をしていたという。
1615年、大坂夏の陣では後藤又兵衛(ごとう・またべえ)軍を撃破した。その際、片倉景綱の子・重綱(しげつな)が又兵衛を負傷させ戦闘不能にし、自害に追い込んだとされる。
伊達軍はさらに進軍したが真田幸村の反撃にあうとすぐさま撤退し、先鋒を率いる水野勝成(みずの・かつしげ)の要請も無視して兵を動かさなかった。
それどころか水野家の兵を襲って馬を奪い、激怒した勝成に報復されるという同士討ちまで演じ、幸村には「関東勢は百万と言えども男は一人もいない」と嘲笑されたという。
なお水野家との同士討ちには、勝成の指揮下にあった神保家の兵300人を殲滅し「神保軍が敗北し総崩れになっていたので、それに巻き込まれるのを防ぐためやむなく処分した」と政宗は開き直った、との異説もある。
乱世が終結すると政宗は領国経営に専念し仙台を大いに発展させた。
一方で多くの趣味に私財を投じ、特に現在も仙台名物として知られるずんだ餅、凍り豆腐、笹かまぼこを自ら考案するなど、当時は男子が携わることはきわめて稀だった料理に熱心であった。
また能は自ら太鼓の名人に師事し秀吉や家康に腕前を披露した。晩年には毎年3万石もの巨費を能に投じていたとされる。
家康死後の徳川家との関係は良好で、ある時、2代将軍・徳川秀忠を饗応した際に秀忠の家臣が毒殺を危ぶみ、政宗に毒味をするよう言うと「この政宗が毒殺などと姑息な真似をするか。謀叛するなら堂々と正面から戦を挑む」と気色ばみ、かえって秀忠を感心させた。
また秀忠は臨終の床で政宗に「かつて父(家康)は死の床に伏せると、後顧の憂いを断つため病を押して伊達家を討伐する軍を起こそうとしていた」と明かしたという。
秀忠の子で3代将軍・徳川家光には「伊達の親父殿」と呼ばれるほど重用され、家光が参勤交代を発令し「今後は諸大名を家臣として遇する」と命じると政宗がいち早く臣下の礼を取り「命令に背く者は私が討伐します」と申し出るなど忠誠心を示し諸大名を牽制した。
1636年、70歳で没した。死因は食道癌と見られる。
死の3日前に家光が見舞いに訪れた際には行水して身を清め矍鑠として出迎え、臨終の際には妻子に死に顔を見せなかったといい、最期まで「伊達男」であり続けた。
家光は病気平癒の祈願を江戸中の寺社に命じるなどし、没すると実父を亡くした時よりも嘆き悲しみ、外様大名としては異例の服喪まで発布したという。
以降も伊達家は伊予宇和島などに分家を立てられた他、徳川家から正室を迎えるなど別格の扱いを受けた。
明治期には戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられ大減封の憂き目にあったが、華族令により爵位は得られた。
二本松義継(にほんまつ・よしつぐ)
陸奥の人(1552~1585)
陸奥の大名・二本松家の当主。
1585年、伊達政宗に攻められ降伏しようとしたが、政宗は所領安堵を認めずほとんどの領地を没収しようとした。
すでに隠居していた政宗の父・伊達輝宗(てるむね)らの仲介で条件は緩和されたが、義継の怒りは収まらず、輝宗を拉致して連れ去った。(一説には輝宗の家臣が刀を研いでいるのを見て暗殺されると勘違いし先手を打ったとも、不穏な空気を悟った輝宗が政宗の代わりに義継を引見し、政宗が無理ならばと父をさらったともいう)
だが居城へ向かう途中で政宗が追いつき、輝宗が「俺ごと撃て」と命令したため鉄砲隊によって義継は輝宗もろとも射殺された。
政宗が独断で射殺を命じたとも、義継が輝宗を先に殺したなど諸説あるが真相は闇の中である。
父を道連れにされた政宗は激昂して自ら義継の遺体を切り刻み、さらに藤蔓でつなぎ合わせて木から吊り下げたという。
鬼庭綱元(おにわ・つなもと)
出羽の人(1549~1640)
伊達家の家老。
1575年、隠居した父・鬼庭良直(おにわ・よしなお)から家督を譲られた。
1586年、人取橋の戦いで殿軍を務め伊達政宗を無事に撤退させたが、父の良直は戦死した。
後に父を討ち取った窪田十郎(くぼた・じゅうろう)は捕らえられたが、綱元は「無抵抗な捕虜を斬るのは士道にもとる」と解放したため、感銘を受けた窪田十郎は綱元の家臣になったという。
1590年、葛西大崎一揆が発生し、扇動者が政宗だと露見すると、綱元は豊臣秀吉のもとへ弁明に赴き、以降は折衝役を務めた。
1592年からの文禄の役では留守居役を命じられ、この際に秀吉は「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」と茂庭(もにわ)綱元へと改名させた。
秀吉は綱元を大いに気に入り家臣にしようと考えたため、政宗から疎まれた。
1595年、政宗は「ただちに隠居すること」「隠居料として100石しか払わない」「それ以外に収入を得たら息子の所領を没収する」と無理難題を突きつけたため、激怒した綱元は伊達家を出奔した。
それを聞き徳川家康は綱元を召し抱えようとしたが、政宗が奉公構(他家への仕官を禁ずる処罰)を出したため果たせず、気の毒に思った家康は綱元に家宝や当座の資金を与えた。
しかし2年後、政宗も反省したのか綱元は伊達家への帰参がかなった。
復帰後は政宗の信頼も厚く、1600年の関ヶ原の戦いでは主力の一角を担い、政宗が上洛を命じられると留守居役を務め、さらにはかつて父が担った評定役として奉行を指揮した。
1602年には政宗が秀吉から賜った側室の香の前(こうのまえ)を下げ渡し、政宗と香の前の間に産まれた一女一男は綱元の子として育てられた。
またこの逸話には異説がいくつかあり、そもそも香の前は秀吉から綱元へ贈られており、それを政宗が略奪したため綱元が出奔した、とするものもある。
1604年からは政宗の五男・伊達宗綱(だて・むねつな)の後見役を務め、1614年の大坂冬の陣では政宗の長男・伊達秀宗(だて・ひでむね)の軍を率いた。
戦後、秀宗が伊予宇和島に10万石を与えられると綱元はそれを助け、後の宇和島藩の興隆に貢献した。
1618年、伊達宗綱が若くして没すると高野山に入り三年にわたり菩提を弔った。
1636年、政宗も没すると隠棲し、政宗と宗綱を弔うためにそれぞれ堂を建立したという。
片倉景綱(かたくら・かげつな)
陸奥の人(1557~1615)
伊達家。神職の家に生まれたが両親は早くに亡くなり、姉で伊達政宗の乳母・喜多(きた)に育てられ、20歳ほど離れた姉から文武両道にわたり指導を受けたという。
喜多の縁から政宗の父・伊達輝宗(てるむね)に才能を見出され、幼くして政宗の腹心に抜擢された。
一説には政宗の剣術の指南役も務めた他、大変な美男子で笛の名手であったとされる。
長じると伊達家の主要な戦のことごとくに参戦し、軍師的役割を果たした。
1590年、豊臣秀吉から小田原征伐への参陣を求められると政宗は渋ったが、景綱の進言で招集に従い、危ういところで家名取り潰しを免れさせた。
家中では外交・政略面も取り仕切り「武の伊達成実(しげざね)」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。
成実が一時、出奔したのとは対照的に政宗との関係は終始良好で、妻が懐妊した時には政宗にまだ子供がいないのをはばかり、我が子を殺害しようと考え、政宗に自ら止められることもあった。
また秀吉から5万石で直臣に誘われるも、不興を買うことも恐れず断ったという。
晩年には糖尿病を患い肥満し、政宗から軽装の鎧を贈られもしたが、1615年、政宗より先に没した。
6名の家臣が景綱を慕い殉死を遂げたとされる。
跡を継いだ片倉重長(しげなが)も父に劣らぬ「鬼」とうたわれるほどの名将で、景綱の通称・小十郎(こじゅうろう)を継ぎ、片倉家の当主は代々「片倉小十郎」を名乗るようになった。
伊達家。母は当主・伊達晴宗(はるむね)の娘で、父は晴宗の弟・伊達実元(さねもと)。
兜の前立てに「絶対に後ろに退かない」習性から毛虫をあしらい、これは現存しており非常に著名である。
幼少の頃から伊達政宗の腹心として育てられ、1585年、人取橋の戦いでは大敗を喫する中、必死に防戦し政宗を無事に撤退させた。
同年、火災に巻き込まれ右手の指が全て熱傷で癒着する怪我を負ったが、武勇はいささかも衰えず、1588年の郡山合戦では寡兵で蘆名軍の猛攻をしのぎつつ大内定綱(おおうち・さだつな)を調略し、1589年の摺上原の戦いでは奇襲攻撃で劣勢を覆し勝利のきっかけとなった。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐へ政宗が招集されると留守居役を務めたが、その後の葛西大崎一揆で政宗の一揆扇動が露見し、成実は人質として蒲生家に一時預けられた。
政宗とともに伏見に駐在するなど信頼厚かったが1595年頃、突如として伊達家から出奔した。
居城は屋代景頼(やしろ・かげより)に接収され、その際には成実の寵臣を除こうと考えた家臣が屋代軍を利用して30人余りを殺させるなど混乱を招いたが、現在も出奔の理由は不明で、地位と禄高に不満を抱いたとも、豊臣秀次(ひでつぐ)の切腹にあたり政宗の連座を避けるため罪をかぶって隠遁したともいい、創作では国家転覆のための密命を帯びていたとか、ヨーロッパに渡ったとか便利に使われている。
1600年、関ヶ原の戦いでは上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)から5万石で誘われるも「本来ならば家臣筋の家に仕える気はない」と拒絶した。(父の実元は上杉家に養嗣子として婿入りする直前に政争から破談となった。景勝は上杉家に仕える長尾家の出)
先には徳川家康からも誘いがあったが政宗の根回しでこれも流れ、結局同年の秋に片倉景綱(かたくら・かげつな)らの説得で伊達家に帰参した。
その後は元通りに重用され、政宗の没後には筆頭家老格の扱いを受けた。
若い頃は勇猛で知られたが外交・内政でも卓越した手腕を発揮し、領地の石高を倍増させるほどだった。
1646年、子に恵まれず養嗣子に迎えていた政宗の九男に家督を譲り、間もなく没した。
善政を布いた成実は領民にも大いに慕われ、明治期には神として祀られ、今もなお敬愛されているという。
伊達家の当主。
伊達晴宗(はるむね)の次男だったが長男は岩城家を継いでいたため、1564年に家督を継ぎ、また同年に最上義守(もがみ・よしもり)の娘・義姫(よし)をめとった。
だが実権は晴宗と、重臣の中野宗時(なかの・むねとき)父子に握られ傀儡の立場に過ぎなかった。
1570年、雌伏の時を経て輝宗は決起すると、中野宗時に謀叛の嫌疑を掛けて父子ともに追放。さらに自分に非協力的だった重臣を次々と処罰し、一気に実権を奪い返した。晴宗は蟄居させられたが、後に父子は和解したという。
また最上義守と嫡子の最上義光(よしあき)が対立すると、義守に味方し義光と戦ったが、この時は義姫が仲裁に入ったため撤退した。
輝宗は鬼庭良直(おにわ・よしなお)を評定役に、中野宗時の家臣だった遠藤基信(えんどう・もとのぶ)を外交役に抜擢すると、蘆名家ら周辺の大名と何重にも婚姻を結び、さらに中央で頭角を現した織田信長にいち早くよしみを通じ、また関東の北条家とも同盟した。
その他、嫡子・伊達政宗の腹心として幼い片倉景綱(かたくら・かげつな)や屋代景頼(やしろ・かげより)を見出し、高名な僧や学者を招くなど人事・外交面で辣腕をふるった。
1578年、上杉謙信が没し後継者争いが起こると、輝宗は蘆名家とともに上杉景虎(うえすぎ・かげとら)に味方した。上杉景勝(かげかつ)方についた新発田重家(しばた・しげいえ)の奮戦により目立った戦果は挙げられず、景虎も敗死したものの、戦後の論功行賞に不満を抱いた新発田重家は反乱し、輝宗もそれを援助したため反乱は泥沼化し、上杉家を長く苦しめた。
1584年には宿敵の相馬家を破り、最盛期の勢力圏をほぼ取り戻した。
さらに同盟を結んだ蘆名家が内乱から当主を失い(当主が男色相手に痴話喧嘩の末に殺された)生後1ヶ月の蘆名亀王丸(あしな・かめおうまる)が当主となると、亀王丸の伯父にあたる輝宗はその後見役となり、自らは上杉家への対策に専念しようと、伊達政宗に家督を譲った。
だが政宗は逆に上杉家と同盟したため、蘆名家や最上家との関係は一気に悪化した。
1585年、輝宗は岳父・田村清顕(たむら・きよあき)の求めに応じ、田村家から伊達家に鞍替えしていた大内家に、田村家の支配下に戻るよう命じた。
しかし大内定綱(おおうち・さだつな)は前年に大内家の処遇をめぐり伊達家と田村家が衝突していたことから、伊達家の命令で従属したのに今さら田村家に戻れないとそれを拒絶した。
政宗はすぐさま大内家の討伐を命じ、大内定綱は蘆名亀王丸の母(輝宗の妹)に仲裁を頼んだが、政宗は今度は蘆名家に牙を剥き領土に侵攻した。
政宗は敗北したが、大内家の縁戚である二本松義継(にほんまつ・よしつぐ)も攻撃したため、輝宗が築き上げた南奥羽の同盟網は瓦解を始めた。
二本松義継は降伏したが、政宗は大幅な所領削減を命じた。輝宗が仲裁に入り処分は軽減されたが、義継は大いに不満を抱き、仲裁への謝意と偽って輝宗に近づくと拉致して連れ去ってしまった。(一説には輝宗の家臣が刀を研いでいるのを見て暗殺されると勘違いし先手を打ったとも、不穏な空気を悟った輝宗が政宗の代わりに義継を引見し、政宗が無理ならばと父をさらったともいう)
だが居城へ向かう途中で政宗が追いつき、輝宗が「俺ごと撃て」と命令したため鉄砲隊によって義継は輝宗もろとも射殺された。
政宗が独断で射殺を命じたとも、義継が輝宗を先に殺したなど諸説あるが真相は闇の中である。
父を道連れにされた政宗は激昂して自ら義継の遺体を切り刻み、さらに藤蔓でつなぎ合わせて木から吊り下げ、またかつて輝宗に抜擢された遠藤基信ら多くの殉死者が出たという。
輝宗の死により奥州の秩序は失われ、孤立した伊達家は劣勢を強いられ、政宗は窮地の連続に追い込まれることとなったが、同盟の崩壊から父の死までほとんどは政宗の自業自得に思える。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとした政宗は、母の招きを受けた。その席上、義は政宗を毒殺しようとし、激怒した政宗は、母が政宗よりもかわいがり、毒殺未遂にも関与していたとされる弟の伊達小次郎(だて・こじろう)を斬り捨てた。
しかしこの事件には諸説あり、真相はよくわかっておらず、義は毒殺未遂後にも政宗と親しく手紙や贈り物のやりとりをしている。
だが1594年、政宗が朝鮮出兵で留守の折に、義は最上家へ戻った。
1600年、関ヶ原の戦いに連動し、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が最上義光を攻めると、義光は伊達政宗に援軍を要請し、義もそれに口添えした。
政宗の腹心・片倉景綱(かたくら・かげつな)らは最上と上杉を戦わせ疲弊してから動くよう進言したが、母の安否を気づかった政宗はすぐに兵を挙げた。
1622年、すでに兄・義光も亡く、改易された最上家を去った義は、政宗を頼った。
晩年の母子は和解しており、義は政宗の妻に手製の縫い物を贈るなどし、義の死後には政宗は自ら位牌を作り、保春院を建立し菩提を弔った。
1578年、最上家の分家である上山満兼(かみのやま・みつかね)が伊達家の支援を受け最上領に侵攻。義光は撃退し伊達輝宗の本陣に迫るが、そこに妹で輝宗の妻である義が現れ、義兄弟での争いをやめるよう求めた。最上・伊達両家に強い発言権を持つ義の意向を無視できず、最上家は伊達家と和睦を結んだ。
1580年から義光は謀略を用いて勢力拡大をしていく。まず上山満兼の重臣を調略して満兼を暗殺させ、上山城を落とした。
つづいて鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな)を内応させ小野寺家を、東禅寺義長(とうぜんじ・よしなが)を内応させ大宝寺家を戦わずして破った。
さらに仮病で白鳥家の当主を見舞いに越させて暗殺。猛将・延沢満延(のべさわ・みつのぶ)の奮戦で天童家に敗れると、満延に娘を嫁がせて引き抜き天童家も下し、ついに最上郡全域を支配下に収めた。
1588年、伊達政宗が義光の義兄・大崎義隆(おおさき・よしたか)を攻撃したため、義光は救援に赴いた。
だがまたも義が現れ、対峙する両軍の間に駕籠を止めた。義光は戦を続けようとしたが、子供たちが叔母の義になつくのを見て虚しさを覚え、再び伊達家と和睦を結んだ。
それを見た上杉景勝は、伊達家を警戒し最上家が動けないと読み、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)と大宝寺義勝(だいほうじ・よしかつ)に最上領の庄内への侵攻を命じ、庄内は大宝寺家のもとへ奪回された。
義光は懇意にしていた徳川家康に庄内侵攻の不当性を主張したが、上杉家は直江兼続の友人である石田三成を通じ豊臣秀吉に接近し、秀吉の裁定により庄内の統治を認めさせた。
1590年、秀吉の小田原征伐の召集に応じ、本領を安堵された。ちなみにこの時、遅参して処刑される一歩手前だった伊達政宗よりもさらに遅く到着したが、父・最上義守の葬儀のためと家康に根回ししておいたため、咎められなかったという。
義光は次男を家康、三男を秀吉に仕えさせ、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)に迫られてやむなく三女・駒姫(こま)を側室に出すなど豊臣政権下で着々と地位を固めていく。
だが1595年、豊臣秀次が謀叛の嫌疑をかけられ切腹すると、まだ15歳の駒姫も連座して処刑された。
悲嘆に暮れて駒姫の生母も亡くなり、義光も伊達政宗とともに秀次への関与を疑われ謹慎させられたため、秀吉への憎悪を募らせた義光は以降、家康への傾倒を強めていく。
1598年、上杉家が東北の諸大名と関東の家康を監視するため、隣の会津に転封された。犬猿の仲に加え上杉領が最上領で分断されており、両家の衝突は時間の問題となった。
1600年、家康は軍備の増強を進める上杉家を詰問するが、直江兼続は事実上の宣戦布告と言える「直江状」を返し、家康は上杉討伐を決断する。
義光もそれに加わるが、石田三成が上方で挙兵したため家康軍は反転。義光は結城秀康(ゆうき・ひでやす)、伊達政宗、南部利直(なんぶ・としなお)とともに上杉軍の牽制を命じられた。
だが南部軍は領内での一揆を口実に撤退。伊達家は上杉家と和睦してしまい、最上軍は孤立した。義光は息子を人質に差し出して上杉家と和睦しようと見せかけつつ奇襲を狙ったが、見抜かれてしまいついに両家は激突した。
直江兼続率いる2万の大軍が最上領に侵攻。対する最上軍は3千ほどしか投入できなかったが2千挺もの鉄砲を配備していたため善戦した。
畑谷城では江口光清(えぐち・みつきよ)が義光の撤退命令を無視して350人で籠城を続け、才を惜しんだ兼続も降伏を勧告するが、上杉軍に1000名近い死傷者を出させて玉砕した。
一方の長谷堂城では志村光安(しむら・みつやす)と鮭延秀綱、湯沢城では楯岡満茂(たておか・みつしげ)らがわずかな兵で上杉軍を防ぎ、戦線を膠着させる。
義光は各地に援軍を要請し、南部家は駆けつけたものの、伊達政宗はその隙に南部領で一揆を煽動するなど勢力拡大を企み、留守政景(るす・まさかげ)にたった3千を預けて出撃させるだけにとどめ、しかも戦闘には参加させなかった。(これでも母の義が最上家にいることから、いちおう重い腰を上げたらしい)
苦戦は続いたが関ヶ原での西軍の敗戦が伝わると、上杉軍は長谷堂城の包囲を解き撤退にかかった。義光は家臣が止めるのも構わず「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか」と自ら先頭に立って追撃したが、兼続や前田慶次の反撃により兜に被弾し、あと一歩のところで取り逃がしてしまい、兼続の鮮やかな撤退戦に賛辞を惜しまなかったという。
義光は上杉家が混乱する中、庄内の奪回に成功し、戦後には計57万石に加増された。
その後は内政に注力し、善政を布いたため領民に非常に慕われ、存命中には一揆もほとんど起こらなかった。
だが家康が自分のもとに出仕していた義光の次男・最上家親(もがみ・いえちか)に最上家を継がせたいと考えたため、嫡子の最上義康(もがみ・よしやす)との間にあつれきが生じた。家親と義康を擁するそれぞれの家臣団の対立に発展し、義光も義康と反目し合う中、1603年(1611年?)義康が何者かによって暗殺された。義光もこの時ばかりはいたく悲しみ、駒姫の際と同等の盛大な葬儀を催したという。
1614年、義光は69歳で没した。
跡を継いだ最上家親もそのわずか3年後に急死し、跡目争いが起こったため1622年、最上家は改易となった。