三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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伊達家。母は当主・伊達晴宗(はるむね)の娘で、父は晴宗の弟・伊達実元(さねもと)。
兜の前立てに「絶対に後ろに退かない」習性から毛虫をあしらい、これは現存しており非常に著名である。
幼少の頃から伊達政宗の腹心として育てられ、1585年、人取橋の戦いでは大敗を喫する中、必死に防戦し政宗を無事に撤退させた。
同年、火災に巻き込まれ右手の指が全て熱傷で癒着する怪我を負ったが、武勇はいささかも衰えず、1588年の郡山合戦では寡兵で蘆名軍の猛攻をしのぎつつ大内定綱(おおうち・さだつな)を調略し、1589年の摺上原の戦いでは奇襲攻撃で劣勢を覆し勝利のきっかけとなった。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐へ政宗が招集されると留守居役を務めたが、その後の葛西大崎一揆で政宗の一揆扇動が露見し、成実は人質として蒲生家に一時預けられた。
政宗とともに伏見に駐在するなど信頼厚かったが1595年頃、突如として伊達家から出奔した。
居城は屋代景頼(やしろ・かげより)に接収され、その際には成実の寵臣を除こうと考えた家臣が屋代軍を利用して30人余りを殺させるなど混乱を招いたが、現在も出奔の理由は不明で、地位と禄高に不満を抱いたとも、豊臣秀次(ひでつぐ)の切腹にあたり政宗の連座を避けるため罪をかぶって隠遁したともいい、創作では国家転覆のための密命を帯びていたとか、ヨーロッパに渡ったとか便利に使われている。
1600年、関ヶ原の戦いでは上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)から5万石で誘われるも「本来ならば家臣筋の家に仕える気はない」と拒絶した。(父の実元は上杉家に養嗣子として婿入りする直前に政争から破談となった。景勝は上杉家に仕える長尾家の出)
先には徳川家康からも誘いがあったが政宗の根回しでこれも流れ、結局同年の秋に片倉景綱(かたくら・かげつな)らの説得で伊達家に帰参した。
その後は元通りに重用され、政宗の没後には筆頭家老格の扱いを受けた。
若い頃は勇猛で知られたが外交・内政でも卓越した手腕を発揮し、領地の石高を倍増させるほどだった。
1646年、子に恵まれず養嗣子に迎えていた政宗の九男に家督を譲り、間もなく没した。
善政を布いた成実は領民にも大いに慕われ、明治期には神として祀られ、今もなお敬愛されているという。