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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―伊達輝宗  独眼竜の父

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戦国列伝―伊達輝宗  独眼竜の父



伊達輝宗(だて・てるむね)
陸奥の人(1544~1585)

伊達家の当主。
伊達晴宗(はるむね)の次男だったが長男は岩城家を継いでいたため、1564年に家督を継ぎ、また同年に最上義守(もがみ・よしもり)の娘・義姫(よし)をめとった。
だが実権は晴宗と、重臣の中野宗時(なかの・むねとき)父子に握られ傀儡の立場に過ぎなかった。

1570年、雌伏の時を経て輝宗は決起すると、中野宗時に謀叛の嫌疑を掛けて父子ともに追放。さらに自分に非協力的だった重臣を次々と処罰し、一気に実権を奪い返した。晴宗は蟄居させられたが、後に父子は和解したという。
また最上義守と嫡子の最上義光(よしあき)が対立すると、義守に味方し義光と戦ったが、この時は義姫が仲裁に入ったため撤退した。

輝宗は鬼庭良直(おにわ・よしなお)を評定役に、中野宗時の家臣だった遠藤基信(えんどう・もとのぶ)を外交役に抜擢すると、蘆名家ら周辺の大名と何重にも婚姻を結び、さらに中央で頭角を現した織田信長にいち早くよしみを通じ、また関東の北条家とも同盟した。
その他、嫡子・伊達政宗の腹心として幼い片倉景綱(かたくら・かげつな)や屋代景頼(やしろ・かげより)を見出し、高名な僧や学者を招くなど人事・外交面で辣腕をふるった。

1578年、上杉謙信が没し後継者争いが起こると、輝宗は蘆名家とともに上杉景虎(うえすぎ・かげとら)に味方した。上杉景勝(かげかつ)方についた新発田重家(しばた・しげいえ)の奮戦により目立った戦果は挙げられず、景虎も敗死したものの、戦後の論功行賞に不満を抱いた新発田重家は反乱し、輝宗もそれを援助したため反乱は泥沼化し、上杉家を長く苦しめた。

1584年には宿敵の相馬家を破り、最盛期の勢力圏をほぼ取り戻した。
さらに同盟を結んだ蘆名家が内乱から当主を失い(当主が男色相手に痴話喧嘩の末に殺された)生後1ヶ月の蘆名亀王丸(あしな・かめおうまる)が当主となると、亀王丸の伯父にあたる輝宗はその後見役となり、自らは上杉家への対策に専念しようと、伊達政宗に家督を譲った。
だが政宗は逆に上杉家と同盟したため、蘆名家や最上家との関係は一気に悪化した。

1585年、輝宗は岳父・田村清顕(たむら・きよあき)の求めに応じ、田村家から伊達家に鞍替えしていた大内家に、田村家の支配下に戻るよう命じた。
しかし大内定綱(おおうち・さだつな)は前年に大内家の処遇をめぐり伊達家と田村家が衝突していたことから、伊達家の命令で従属したのに今さら田村家に戻れないとそれを拒絶した。
政宗はすぐさま大内家の討伐を命じ、大内定綱は蘆名亀王丸の母(輝宗の妹)に仲裁を頼んだが、政宗は今度は蘆名家に牙を剥き領土に侵攻した。
政宗は敗北したが、大内家の縁戚である二本松義継(にほんまつ・よしつぐ)も攻撃したため、輝宗が築き上げた南奥羽の同盟網は瓦解を始めた。

二本松義継は降伏したが、政宗は大幅な所領削減を命じた。輝宗が仲裁に入り処分は軽減されたが、義継は大いに不満を抱き、仲裁への謝意と偽って輝宗に近づくと拉致して連れ去ってしまった。(一説には輝宗の家臣が刀を研いでいるのを見て暗殺されると勘違いし先手を打ったとも、不穏な空気を悟った輝宗が政宗の代わりに義継を引見し、政宗が無理ならばと父をさらったともいう)

だが居城へ向かう途中で政宗が追いつき、輝宗が「俺ごと撃て」と命令したため鉄砲隊によって義継は輝宗もろとも射殺された。
政宗が独断で射殺を命じたとも、義継が輝宗を先に殺したなど諸説あるが真相は闇の中である。
父を道連れにされた政宗は激昂して自ら義継の遺体を切り刻み、さらに藤蔓でつなぎ合わせて木から吊り下げ、またかつて輝宗に抜擢された遠藤基信ら多くの殉死者が出たという。

輝宗の死により奥州の秩序は失われ、孤立した伊達家は劣勢を強いられ、政宗は窮地の連続に追い込まれることとなったが、同盟の崩壊から父の死までほとんどは政宗の自業自得に思える。

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