三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
片倉景綱(かたくら・かげつな)
陸奥の人(1557~1615)
伊達家。神職の家に生まれたが両親は早くに亡くなり、姉で伊達政宗の乳母・喜多(きた)に育てられ、20歳ほど離れた姉から文武両道にわたり指導を受けたという。
喜多の縁から政宗の父・伊達輝宗(てるむね)に才能を見出され、幼くして政宗の腹心に抜擢された。
一説には政宗の剣術の指南役も務めた他、大変な美男子で笛の名手であったとされる。
長じると伊達家の主要な戦のことごとくに参戦し、軍師的役割を果たした。
1590年、豊臣秀吉から小田原征伐への参陣を求められると政宗は渋ったが、景綱の進言で招集に従い、危ういところで家名取り潰しを免れさせた。
家中では外交・政略面も取り仕切り「武の伊達成実(しげざね)」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。
成実が一時、出奔したのとは対照的に政宗との関係は終始良好で、妻が懐妊した時には政宗にまだ子供がいないのをはばかり、我が子を殺害しようと考え、政宗に自ら止められることもあった。
また秀吉から5万石で直臣に誘われるも、不興を買うことも恐れず断ったという。
晩年には糖尿病を患い肥満し、政宗から軽装の鎧を贈られもしたが、1615年、政宗より先に没した。
6名の家臣が景綱を慕い殉死を遂げたとされる。
跡を継いだ片倉重長(しげなが)も父に劣らぬ「鬼」とうたわれるほどの名将で、景綱の通称・小十郎(こじゅうろう)を継ぎ、片倉家の当主は代々「片倉小十郎」を名乗るようになった。