三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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結城秀康(ゆうき・ひでやす)
遠江の人(1574~1607)
徳川家康の次男。
母は家康の正室・築山殿(つきやま)の女中で、懐妊を知った家康は妻の勘気を恐れ、重臣の本多重次(ほんだ・しげつぐ)に預けた。
双子に生まれたが、当時は双子は忌み嫌われており、また母の身分が低いことから家康に疎まれ、父と初対面したのも3歳の時、それも不憫に思った長兄の松平信康(まつだいら・のぶやす)のはからいによるという。
1579年、その信康が父との不仲から自害を命じられ、秀康は後継者の筆頭に躍り出た。
しかし1584年、小牧・長久手の戦い後に豊臣秀吉と和睦した際、家康は人質として(表向きは養子)秀康を差し出したため、三男の徳川秀忠が後継者となった。同年に元服し、秀吉と家康から一字ずつもらい秀康と名乗った。
武勇に優れ14歳で初陣を果たすと、九州征伐、小田原征伐などで次々と武功を立てた。
しかし1589年、秀吉に待望の実子が生まれると立場を失い、実父の家康が関東に移封されると、徳川家への加増の名目で名門・結城晴朝(はるとも)の養子に出され、下総の結城領11万石を継いだ。
1600年、関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝への牽制役となり、その功績により一門衆1位の加増を受け越前北ノ庄67万石に転封された。
だが1607年、34歳の若さで没した。死因とされる梅毒を患い、晩年は鼻が欠けていたという。
武将としては一流で、勇猛ながら謙虚な人柄でも知られ、家康にその豪胆さを感心されることもあった。
旗印として出生時に母をかくまった本多重次の「本」の字をあしらった物を用いており、またその図案を作ったのは家康との対面の場を設けた長兄の信康だという。受けた恩を忘れない秀康の律儀さがしのばれる。
家康が後継者を誰にすべきか重臣に問うた時、実際に跡を継いだ徳川秀忠よりもその名を挙げるものは多かったという。
秀忠が家督を継いだ時、秀康は伏見城代を務めていた。出雲阿国を招き歌舞伎を見物すると「天下に幾千万の女はあれど、天下一の女は阿国だろう。私は天下一の男になるどころか、彼女にすら及ばない」と嘆息したといい、その内には野心を秘めていたことがうかがえる。
死後、家督は長男の忠直(ただなお)が継いだが、間もなく松平姓に復してしまった。
結城家が途絶えるのを恐れた結城晴朝は幕府に必死に訴え出て秀康の五男・直基(なおもと)を養子にもらい受けたものの、晴朝の死後に直基も松平姓に戻し、結局は途絶えてしまった。
また双子の兄弟とされる永見貞愛(ながみ・さだちか)は夭折したことにされ、母の実家の永見家に預けられ、長じると伯父の神職を継ぎ、秀康よりも2年早い1605年に没している。
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三浦按針(みうら・あんじん)
イングランドの人(1564~1620)
本名はウィリアム・アダムス。
イングランド南東部のケント州ジリンガムに生まれ、船員だった父を亡くすと12歳でロンドンに移り住み船大工に弟子入りした。
しかし造船術よりも航海術に興味を抱き、奉公を終えると15歳で海軍に入隊した。
やがて家庭を築き一男一女をもうけたが、軍を離れ商会の航海士となり多忙を極めたため、家にはほとんど寄り付かなかったという。
1598年、オランダから極東を目指す船団が航海士を探していると聞き、興味を覚えたアダムスは弟とともにそれに応募した。
しかし航海は船団5隻のうち2隻が他国に拿捕され、1隻は途中で帰還、もう1隻は沈没と惨憺たる結果で、アダムスの乗ったリーフデ号も1600年に豊後の黒島に漂着し、途上で赤痢や壊血病、インディオの襲撃により110人の乗組員のうち86人が脱落し、弟もインディオに殺害されていた。
乗組員は衰弱し自力で上陸すらできず、長崎奉行の寺沢広高(てらさわ・ひろたか)はアダムスらの身柄を拘束し武器を奪うと、豊臣家に判断を仰いだ。
五大老筆頭の徳川家康が裁定を下すこととなり、重体で身動きの取れない船長に代わりアダムスやヤン=ヨーステンらが大坂に護送された。
オランダやイングランドと敵対するイエズス会の宣教師は彼らを海賊と断定し処刑を求めていたため、家康もはじめは警戒したが、直接引見すると、アダムスらの理路整然とした説明と堂々たる態度に感心し、居城のある江戸に招いた。
アダムスは帰国を望んだが、彼らを気に入った家康は俸禄や家を与えるなど慰留に努め、外国使節との通訳や助言役に用い、数学や航海術など知識の提供を求めた。
やがて帰国を諦めたアダムスは、1602年頃に家康の御用商人でもあった馬込勘解由(まごめ・かげゆ)の娘をめとり、一男一女をもうけた。
さらにアダムスの船大工だった過去を知ると家康は西洋式の帆船の建造を求めた。
造船の経験は浅く、当初は難色を示したが断り切れず、大型船の建造に成功し、このガレオン船は1610年に上総に漂着した前フィリピン総督ドン・ロドリゴに貸し出され、彼を無事にエスパーニャ(スペイン)に送り届けたという。
この功績により家康はアダムスを旗本に取り立て、相模逸見に所領を与え帯刀を許し、アダムスは異国人ながら武士となった。
家康はあわせて所領のある三浦半島から「三浦」姓を、水先案内人という意味の「按針」という名の日本名を与えた。
1613年、東インド会社の交易船が来航し、按針は家康への仲介や通訳を務めた。
交易船が帰国する際、家康からもイングランドからも按針に帰国の許可が下りたが、船長のジョン・セーリスは何事も日本式を強要する按針を厭い、按針も年若く横暴なセーリスと馬が合わなかったため、それを見送り日本に残った。
1616年、家康が没すると徳川幕府は鎖国政策を強めたため、按針は天文官を務めるだけの不遇な日々を送り、1620年に55歳で没した。
日本でもうけた息子のジョセフが三浦按針の名とともに武士の身分を受け継ぎ、鎖国後も交易を許されたという。
時は下り1982年、按針の所領があった横須賀市は、その縁から生まれ故郷のジリンガム市と姉妹都市提携を結んでいる。
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水野勝成(みずの・かつしげ)
三河の人(1564~1651)
徳川家。全国を放浪し各地に伝承を残す豪傑風の人物で、後に初代福山藩主となった。
母は本願寺の法主・教如(きょうにょ)の妹とされる。徳川家康の母は勝成の伯母にあたり、自身も二代将軍・徳川秀忠の乳兄弟だったが、父の水野忠重(ただしげ)が織田信長に引き抜かれはじめは織田家に仕えた。
1580年、父とともに武田家の高天神城を攻め初陣を飾った。その際に城内に祀られた天神像を強奪し、本尊として身につけたという。
1582年、父のもとを離れ徳川軍に加わり北条家と戦った。勝成は抜け駆けした徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)に激怒し「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と言い放ち、敵陣に突入し多くの首級を挙げたという。
1584年、小牧・長久手の戦いでは織田信雄(のぶかつ)に仕える父に従い、羽柴秀吉軍と戦った。
その際、勝成は結膜炎で眼を痛め兜をかぶれず、鉢巻を巻いていた。忠重が「お前は兜を小便壺にしたのか」とからかうと勝成は激昂し、兜なぞ不要とばかりにそのまま敵陣に突入し一番首を挙げた。また敵将で「鬼武蔵」とうたわれた森長可(もり・ながよし)を討ち取ったのも水野家の兵である。
だが忠重は息子の抜け駆けに怒り、さらに同年、自分の不行状を父に密告したかどで忠重の部下を斬り殺したため、ついに奉公構(他家への仕官禁止処分。死罪に次ぐ重罰)を出し勝成を勘当した。
勝成は京に流れると寺で寝泊まりし、無頼漢と交わっては喧嘩に明け暮れ、相手を殺すことも多々あった。
1585年、四国征伐で仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の軍に加わり手柄を立て、秀吉から知行を与えられたものの、間もなく出奔し改名すると中国地方に潜伏した。
秀吉に刺客まで放たれたというから相当の怒りを買ったと思われるが、詳細は不明である。
1587年、佐々成政(さっさ・なりまさ)に招かれ肥後国人一揆の鎮圧で活躍したが(一揆の首謀者・隈部親永(くまべ・ちかなが)を討ったのも勝成とされる)成政は単独で鎮圧できなかった責任を取り切腹。
隣国を治める黒田官兵衛に仕えたものの、官兵衛の子・黒田長政(ながまさ)とともに大坂に船で向かう途上でまたも出奔した。長政に操舵の手伝いを命じられ憤慨したとも、秀吉に会うのを嫌がったともされる。
その後は小西行長(こにし・ゆきなが)、加藤清正、立花宗茂ら九州各地の大名のもとを転々としたがいずれも長続きしなかった。
放浪生活を再開した勝成は、各地に様々な伝承を残した後、1594年に備中の三村親成(みむら・ちかなり)に仕えた。
だがここでも茶坊主を無礼討ちして出奔したり、出戻るもすぐに世話役の娘に手を付け子供を産ませたりと問題行動を繰り返した。(その娘・お登久(とく)は正室として迎えた)
1599年、秀吉が没すると勝成は妻子を残し単身で徳川家に帰参し、父とも15年ぶりに和解した。
だが翌1600年、関ヶ原の戦い直前に父の忠重は、石田三成の密命を帯びた加賀井重望(かがのい・しげもち)に西軍に誘われるも、拒絶したため暗殺された。
勝成は遺領の三河刈谷3万石を継ぎ、関ヶ原本戦には加わらなかったが西軍の拠点・大垣城を攻め落とした。
その際に加賀井重望の息子を殺して父の仇討ちをし、また守将の福原長堯(ふくはら・ながたか)が三成から与えられた名刀を奪い、勝成の日向守の官位にちなみ「名物日向正宗」と名付け、これは現存し国宝にも指定されている。なお日向守は明智光秀の没後、名乗る者がいなかったが勝成はむしろ自らそれを望んだという。
関ヶ原で敗れた三成、小西行長らは道端に晒され、諸大名は無視するか侮蔑の言葉を浴びせたが、勝成は彼らに編笠をかぶせてやり、旧主の行長の恩に報いた。
1608年、ようやく備中に残してきた妻子を迎え入れ、息子の水野勝俊(かつとし)は徳川秀忠に仕えるようになった。
しかし妻・お登久は1634年に幕府から人質を求められた際、他に身寄りがなかったため人質に差し出し、嫁ぎ先を探してやった後に別の正室を新たに迎えている。
1615年、大坂夏の陣では勝成の気性をよく知る家康は「昔のように自ら先頭に立って戦うな」と厳命したが、当然のようにそれを無視して自ら偵察まで行い、かつてともに黒田家に仕えた後藤又兵衛(ごとう・またべえ)の軍に先陣切って襲いかかり一番槍をつけた。
後藤軍を破るとさらに渡辺糺(わたなべ・ただす)、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)も撃破し、兼相を討ち取った。
快進撃の水野軍に対し大坂方からは真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)、明石全登(あかし・てるずみ)ら主力が現れにらみ合いになると、勝成は隣に陣を構える伊達政宗にも進軍を促したが、被害を最小限に留めたい政宗は弾薬不足や負傷者多数と偽り二度にわたりこれを拒否。三度目には政宗自ら勝成のもとに出向き断ったため、やむなく勝成もこれ以上の進撃をあきらめた。
翌日、真田幸村が家康の本陣に斬り込み乱戦になると、勝成は茶臼山を落としてその後方を遮断。さらに真田軍の背後を襲い家康の窮地を救った。
また最期が判然としない明石全登の死亡説の一つは水野軍が討ち取ったとされ、勝成も自ら明石軍から2つの首級を挙げており、水野軍にはかの宮本武蔵もいたという。
勝成は大坂夏の陣において戦功第二と激賞されたものの、大和郡山に3万石の加増に留まった。
約束を破り先頭に立って戦ったことに家康が激怒した、石高に関わりなく大坂に近く反乱の懸念の強い要地を任された、など諸説あり、また水野家の伝承では石高の低さに激昂した勝成を秀忠は「家康の隠居後に10万石与える」となだめたとされる。
1619年、福島正則が改易されると代わって勝成に備後福山10万石が与えられた。
備後には勝成の放浪時代の伝承が多く残っており、地の利があると考えられたと見られる。
すでに新規の築城は禁じられていたが、特例として認められ勝成は福山城を築いた。これは近世城郭として築かれた最後の城で、また10万石の城としては破格の巨城である。
勝成は旧主の三村親成を家老として迎え入れるなどかつての人脈を活かし、画期的な施策を多く打ち出し福山を発展させた。
目付役を置かず法度も設けなかったが家臣の統制も堅く、隣国の池田光政(いけだ・みつまさ)は「良将の中の良将」と勝成を讃えた。
徳川家からの信頼も厚く、他大名の家中の騒動を調停したり、将軍の不興を買った者を預けられたりもした。
1638年、島原の乱では九州以外の大名で唯一、幕府から直々に参戦を要請された。
75歳の勝成は「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱(まつだいら・のぶつな)、戸田氏鉄(とだ・うじかね)と並ぶ軍師格に置かれ、包囲陣の最後尾に布陣したものの、総攻撃が始まるとすかさず前に出て(さすがに老齢の勝成は後方に残ったが)水野勝俊が本丸の一番乗りを競った。
翌年、家督を勝俊に譲ったが意欲は衰えず、隠居料の1万石は藩政につぎ込み、80歳にして仏門修行を始めた。87歳の時に鉄砲を撃ち的に命中させて周囲の者を驚かせたと伝わる。
1651年、88歳で没した。徳川二十八神将として日光東照宮にも配祀され、水野家は5代目が2歳で夭折しいったん途絶えたものの、勝成の名を惜しみ勝成の孫が代わって藩主となり存続した。
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松平信康(まつだいら・のぶやす)
三河の人(1559~1579)
徳川家康の長男。本来は徳川姓だが江戸時代に「徳川姓は将軍家と御三家に限る」と制定されたため松平姓に格下げとなった。
幼少期は父と同じく今川家の人質として育ったが、1560年、桶狭間の戦いの後、徳川軍の捕虜となった今川一族の者と交換で家康のもとに戻った。
1567年、同盟する織田信長の娘・徳姫(とく)と、ともに9歳で結婚した。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城は信康に与えられた。
同年7月、元服し信長と家康から一字ずつもらい受け信康と名乗った。
勇猛で知られ15歳で初陣を飾ると、1575年、長篠の戦いでは17歳にして一軍を率い、武田家との戦いで武功を重ねた。
しかし1579年、母の築山殿(つきやま)とともに自害を命じられ21歳で没した。
切腹の理由は諸説あり、最も知られているのが家康との不仲と、母の武田家との内通疑惑である。
1579年、かねてより姑の築山殿と不仲で、夫とも不和になった徳姫は父の信長へ夫の不行状と姑が武田家に内通していることを訴えた。
信長が徳姫の使者を務めた酒井忠次(さかい・ただつぐ)を問いただすと、全く釈明せずに事実を認めたため、信長は信康の切腹を家康に求めた、とするものである。
しかし信康がしばしば農民や周囲の者を無益に殺した、とするのは風説に過ぎず、また築山殿は今川義元の姪にあたり、今川家から独立した家康と不仲だったのは事実ながら、武田家と内通したとするのも無理がある。
長男を死に追いやっておきながら、酒井忠次はその後も徳川家の重臣として遇されているのも不自然である。
近年の研究では、この件に信長は関わっておらず、単純に家康と信康父子の不仲が原因と目されている。
不仲の末に信康が謀叛を企んだため、信康の岳父で同盟相手の信長に相談したところ「家康の思い通りにせよ」と答えられ、家康の判断により妻と息子に自害を命じたのが事の経緯であろうか。
余談だが後年、六男の松平忠輝(ただてる)を引見した家康は、あまりに信康の幼い頃に酷似しているのに驚き、極端なほど忠輝を遠ざけている。
一方で1600年、関ヶ原の戦いで三男の徳川秀忠が遅参し本戦に間に合わなかった時、家康は激怒するとともに勇猛だった長男を思い出し「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と語ったという。
なお関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の命日である。
※アイコンは楊齢
松平忠吉(まつだいら・ただよし)
遠江の人(1580~1607)
徳川家康の四男。
徳川秀忠と母が同じで幼い頃から将来を期待され、2歳で早くも三河東条1万石を領し、3歳で駿河沼津4万石に上った。
長じると武勇に優れた美男子に育ち、徳川四天王の井伊直政(いい・なおまさ)の娘をめとった。
1600年、関ヶ原の戦いでは井伊直政とともに偵察と偽って福島正則の陣をすり抜けると、わずかな手勢でそのまま敵陣に襲いかかり一番槍を飾った。
だが撤退する島津義弘を追撃したところ猛反撃にあい、義弘の甥・島津豊久は討ち取ったものの忠吉と直政は揃って重傷を負った。
戦後、尾張清州や美濃に52万石を与えられたが負傷がもとで(悪性腫瘍ともされる)1607年、28歳の若さで没した。
また直政もやはり戦傷がもとで1602年に没している。
※アイコンは孫桓
松平忠直(まつだいら・ただなお)
摂津の人(1595~1650)
徳川家康の次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)の嫡子。
父は家康に疎まれ他家へ養子に出されたが、忠直は家康の三男で叔父に当たる徳川秀忠に大いに気に入られ、秀忠は9歳の彼を名前ではなく官名の「三河守」と親しく呼びそばに置いた。
1607年、父が没すると越前75万石を継ぎ、1611年には秀忠の娘を正室に迎え「忠」の字も譲り受けた。
しかし年若い忠直では家中をまとめ切れず、重臣たちの対立を招き、武力をもって鎮圧するまでの騒動に発展した。
二度にわたり騒動が持ち上がると、幕府は忠直では荷が重いと判断し、家老の本多富正(ほんだ・とみまさ)に国政を任せ、さらに富正の一族の本多成重(なりしげ)を補佐に付けた。
1614年、大坂冬の陣に参戦するも采配ミスを家康に叱責された。
薬が効き過ぎたのか翌1615年、大坂夏の陣では「命知らずの越前兵」とうたわれるほど果敢な突撃を仕掛け、真田幸村を討ち取り大坂城へも一番槍で侵入する戦功を立てた。
だが論功行賞に不満を抱き幕府への反感を募らせると、1621年からは仮病で出仕を断り、翌年には妻の殺害未遂、さらに意に沿わない家臣に兵を差し向けて殺すなど素行不良が目立ちだした。
1623年、徳川秀忠は忠直に隠居を命じた。
母の説得もあり忠直はおとなしく出家し、豊後に流され謹慎の身となった。
はじめは海沿いの町に住んだが逃亡の恐れがあったため内陸に移され、1650年に当地で没した。
※アイコンは曹安民
松平忠輝(まつだいら・ただてる)
江戸の人(1592~1683)
徳川家康の六男。
母の身分が低く、容貌も醜かったため家康には出生時から疎まれ、下野3万石に過ぎない皆川広照(みながわ・ひろてる)に預けられた。
父に二度目に会ったのは7歳の時で、かつて家康に反目し切腹を命じられた長男・松平信康(のぶやす)に似た容姿に育ってきた忠輝を、家康はますます憎らしく思ったという。
それでも長じると信濃川中島12万石にまで上り、1606年には伊達政宗の長女をめとった。
だが父への反骨心からか粗暴な性格に育ち、養父で家老となっていた皆川広照は素行不良を幕府に訴えさえした。(しかし訴えた広照らが逆に免職となった)
政宗の威光もあり1610年には越後高田を与えられ、川中島と合わせ75万石の大身に上るも、依然として家康とは不仲で、1614年、大坂冬の陣では留守居役を命じられ大いに不満を抱いた。
翌年の大坂夏の陣には参戦したものの、最激戦区となった天王寺への進撃が遅れた。一説に兵力の損耗を嫌った伊達政宗に遅参を命じられたともいうが陰謀論に過ぎるだろうか。
1616年、家康が死の床につくと忠輝も駆けつけたが、面会を許されなかった。
そして父の死から3ヶ月後、徳川秀忠の命で改易となり、伊勢、飛騨、信濃に転々と流された。
息子の松平徳松(とくまつ)は父への同行を許されず、預け先で冷遇され悲嘆のうちに18歳で自害したという。
改易の理由は夏の陣での遅参と、その際に進路を遮った秀忠の旗本を斬り捨てたこと、朝廷への参内を無視して舟遊びに興じていたこと、が挙げられるがいずれも75万石を没収するほどの大罪とは思えず謎は残る。
1682年、忠輝は幽閉先の諏訪で死去した。享年92。
彼が徳川宗家から赦免されたのは実に1984年のことで、それも菩提寺の住職が300回忌に伴い思い立ってのことである。
さんざんな冷遇ぶりは様々な憶測を呼び、家老で死後に多くの大名を巻き込む不正会計事件が発覚した大久保長安(おおくぼ・ながやす)と結託していた、果ては伊達政宗とともに幕府転覆を企んだ、家康や秀忠の暗殺を狙った等とも囁かれる。
一方で織田信長、豊臣秀吉を経て家康の手に渡ったとされる天下人の象徴「野風の笛」が忠輝の所有として現存しており、また75万石もの大領を任されたことから、父子の仲は巷間伝えられるほど悪くなかったのでは、とも言われる。
※アイコンは韓浩
松平忠明(まつだいら・ただあき)
三河の人(1583~1644)
徳川家の重臣・奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の四男。母は徳川家康の長女・亀姫(かめ)で、家康の孫に当たる。
6歳で家康の養子になり松平姓を名乗った。10歳の時に兄(次男)が没したためその家督を継ぎ上野7千石を治めた。
17歳で叔父の徳川秀忠から一字拝領し「忠明」に改名し、翌1600年には関ヶ原の戦いにも参戦した。
1610年、伊勢亀山5万石に加増され、1614年、大坂冬の陣では美濃の諸大名を率い河内方面を任された。
もともと美濃勢は兄が率いる予定だったが出陣の直前に病死し、忠明が代役になったため5万石の小身ながら1万3千もの大軍を率いた。
豊臣家との和睦が成立すると、忠明は大坂城の外堀・内堀の埋め立てを命じられ、夏の陣の勝利の布石となった。
戦後、摂津大坂10万石に加増された忠明は戦災復興にあたり抜群の手腕を見せ、復興させるに留まらず運河を広げ市街地を大幅に拡大し、今日の大阪の発展に多大な貢献をした。道頓堀の名付け親だともいう。
徳川秀忠からは絶大な信頼を受け、もし謀叛が起こり自分が斃れたら後を任せるとまで言われた。
1632年、秀忠が没すると遺言により井伊直孝(いい・なおたか)とともに徳川家光の後見人に任じられる。1639年には播磨姫路18万石に加増され西国探題として西国の諸大名を監督した。
また異説はあるが家康の事績を中心に当時の社会情勢や世相を記した「当代記」の著者としても知られる。
1644年、62歳で没した。
無名に近い人物だが、現代の東京と並ぶ大都市・大阪は彼なくしてあり得なかったろう。
※アイコンは関平
前田利長(まえだ・としなが)
尾張の人(1562~1614)
前田利家の嫡子。幼名は父と同じ犬千代(いぬちよ)で、はじめは前田利勝(としかつ)と名乗った。
織田信長の娘・永姫(えい)をめとり、父の旧領を与えられるなど若くして将来を期待されたが1582年、信長が本能寺の変で討たれると時代のうねりに巻き込まれる。
変の直後には当時7歳の妻を故郷の尾張荒子に匿い、自身は織田信雄(のぶかつ)か蒲生賢秀(がもう・かたひで)に合流し明智光秀に対抗した。
変後は父とともに柴田勝家の傘下に入ったが、1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家と親友・羽柴秀吉が争い、板挟みとなった利家は戦線離脱し秀吉の勝利を決定づけた。
勝家は撤退中、利家の居城に立ち寄ると恨み言の一つも言わず、今までの労をねぎらい茶漬けを一杯だけ所望し北ノ庄城に引き上げた。
利家は秀吉のもとで北ノ庄城攻めに加わったが、利長は置いていこうと考えた。しかし妻まつはあえて息子を送り出した。父に隠れて従軍したためか利長にはわずか2騎の供回りしか同行しなかったという。
その後は父とともに秀吉配下として各地を転戦し、1585年には越中に32万石を与えられた。
1598年に秀吉が没し、翌年に利家も没すると家督とともに加賀金沢26万石を受け継いだ。
利家は五大老として諸大名へにらみを利かせ、存命中は大きな問題を起こさせなかった。
しかし死後、徳川家康は利家に代わり五大老となるや禁止されていた諸大名との婚姻を進めて連携を強化し、石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派は衝突し、早くも家康の五大老就任の翌日に清正らが三成を襲撃する事件まで起こった。
利長は偉大な父の後継者として反徳川陣営の筆頭に担ぎ上げられようとしたが、3年は上方を離れるなという遺言を無視し、加賀へ引き上げた。
浅野長政(あさの・ながまさ)や増田長盛(ました・ながもり)ら五奉行はすかさず利長に反乱の兆しありと家康に奏上し(そもそも加賀へ引き上げるよう勧めたのも家康で、一連の流れは利長を陥れる謀略と考えられる)家康は加賀征伐を決めた。
前田家は主戦派と降伏派に分かれ激しく議論を戦わせ、利長もはじめは主戦派だったが、豊臣家に援軍要請を断られ、母まつも自ら家康への人質を買って出るなど息子を説得したため、利長は養嗣子の前田利常(としつね)と家康の孫娘の婚姻などを条件に降伏した。
また、まつは江戸へ人質に赴きこれは後の参勤交代の先駆けとなった。
1600年、関ヶ原の戦いで利長は家康率いる東軍につき、丹羽長重(にわ・ながしげ)と戦った。
弟の前田利政(としまさ)が西軍につき出陣しなかったため(妻子を西軍に人質に取られたとも、家康への反感ともいう)戦後に利政の治めていた能登七尾22万石は没収されたうえで利長に与えられ、丹羽軍と戦い制圧した西加賀18万石も領有を認められ加賀・能登・越中に計122万石を有する日本最大の藩である加賀藩が誕生した。
また妹の豪姫(ごう)が嫁いでいた宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は西軍の主力として本戦でも奮闘していたが、利長の嘆願により処刑は免れ八丈島への流罪に留まった。豪姫は前田家に戻ったが他家へ嫁ぐことなく秀家への援助を続けたという。
1605年、利長は44歳の若さで隠居し、男子がいないため養嗣子にしていた異母弟の利常に家督を譲ったが、利常は12歳と幼く、利長は一線で活躍し続けた。
しかし1609年頃から病に倒れ、回復の気配もないまま1614年に53歳で没した。
一説には病を苦にして服毒自殺を遂げたとも伝わるが、父利家も重病に苦しみ最期は痛みに激昂し切腹したとの説もある。
※アイコンは諸葛恪
本多正純(ほんだ・ まさずみ)
三河の人(1565~1637)
徳川家康の軍師かつ親友の本多正信(まさのぶ)の嫡子。
出生時、正信は三河一向一揆で一揆方についたため追放され、大和の松永久秀のもとにいたが、正純と母は徳川家の重臣・大久保忠世(おおくぼ・ただよ)に保護されていたという。
父の復帰とともに家康に仕え、父譲りの智謀で頭角を現した。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の側近くで参謀を務め、戦後には捕らえた石田三成の身柄を預かった。
その際には三成に「なぜ捕まる前に潔く腹を切らなかった」と尋ね「大望ある者は最後まで諦めないものだ」と言い返されたという逸話が有名である。
1605年、家康が征夷大将軍の座を徳川秀忠に譲ると、秀忠のもとには大久保忠世の子・大久保忠隣(ただちか)が、家康のもとには正純が、そして両者の仲介役として正信が配された。
家康からの信頼は父にも劣らぬもので、居城にしていた駿府城が失火で焼け落ちると、正純の屋敷で暮らすほどだった。
だが絶大な権勢を手にしたため家康の死後には驕り高ぶるようになり、次第に諸大名の恨みを買っていく。
家康と同年に死去した正信は3万石以上の知行は受けないよう遺命したが、再三の勧めを固辞し切れず1619年には下野宇都宮15万石に加増され、ますます妬みを招いた。
1622年、正純は突如として11ヶ条に及ぶ謀叛の嫌疑を掛けられた。それには淀みなく答えたものの、追加で質問された、将軍家直属の同心を殺したこと、鉄砲を無断で集めたこと、宇都宮城を許可無く改修したこと、の3ヶ条には弁明に窮した。
秀忠はこれまでの忠勤に応じ改易ではなく出羽由利5万石への減封で留めようとしたが、謀叛など身に覚えのない正純はそれを毅然とはねつけたため、激怒した秀忠は改易と幽閉を命じてしまった。
一連の顛末は秀忠の腹心で正純のライバルだった土井利勝(どい・としかつ)による謀略説。
奥平家に嫁いでいた秀忠の姉・亀姫(かめ)が、宇都宮から下総古河に転封させられ後釜に正純が座ったこと、一人娘が嫁いだ大久保家が正純の讒言で改易された(と彼女は見なした)ことを恨み、弟の秀忠に正純を讒言した説。
などが囁かれ、また宇都宮城の無断改修から宿泊した秀忠を機械仕掛けで暗殺しようと企んだという「宇都宮釣り天井事件」の逸話が創られた。
秀忠は重臣中の重臣だった正純の改易について諸大名に説明して回るという異例の対応を取り、説明を受けた細川忠利(ほそかわ・ただとし)は福島正則の改易に正純が反対したこと、宇都宮15万石を得てから数年経って返上を言い出したことが原因であると書き記している。
また関ヶ原の戦いの折、秀忠は真田家の上田城を攻めたため本戦に間に合わず家康から叱責されたが、その際に秀忠のもとには正信が参謀に付いており、正純は父の不手際だったと詫び処罰を願い出て秀忠に感謝されたという逸話があり、命までは取らず幽閉に留めた理由ともされる。
正純は73歳で没するまで15年間にわたり幽閉され、ともに幽閉となった息子にも先立たれた。
逃亡を防ぐため窓や戸は全て板で釘付けにされ、陽もろくに差さない中での軟禁生活を強いられたという。
孫らは正純の死後に他家へ仕官し、旗本として存続している。