三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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本多正純(ほんだ・ まさずみ)
三河の人(1565~1637)
徳川家康の軍師かつ親友の本多正信(まさのぶ)の嫡子。
出生時、正信は三河一向一揆で一揆方についたため追放され、大和の松永久秀のもとにいたが、正純と母は徳川家の重臣・大久保忠世(おおくぼ・ただよ)に保護されていたという。
父の復帰とともに家康に仕え、父譲りの智謀で頭角を現した。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の側近くで参謀を務め、戦後には捕らえた石田三成の身柄を預かった。
その際には三成に「なぜ捕まる前に潔く腹を切らなかった」と尋ね「大望ある者は最後まで諦めないものだ」と言い返されたという逸話が有名である。
1605年、家康が征夷大将軍の座を徳川秀忠に譲ると、秀忠のもとには大久保忠世の子・大久保忠隣(ただちか)が、家康のもとには正純が、そして両者の仲介役として正信が配された。
家康からの信頼は父にも劣らぬもので、居城にしていた駿府城が失火で焼け落ちると、正純の屋敷で暮らすほどだった。
だが絶大な権勢を手にしたため家康の死後には驕り高ぶるようになり、次第に諸大名の恨みを買っていく。
家康と同年に死去した正信は3万石以上の知行は受けないよう遺命したが、再三の勧めを固辞し切れず1619年には下野宇都宮15万石に加増され、ますます妬みを招いた。
1622年、正純は突如として11ヶ条に及ぶ謀叛の嫌疑を掛けられた。それには淀みなく答えたものの、追加で質問された、将軍家直属の同心を殺したこと、鉄砲を無断で集めたこと、宇都宮城を許可無く改修したこと、の3ヶ条には弁明に窮した。
秀忠はこれまでの忠勤に応じ改易ではなく出羽由利5万石への減封で留めようとしたが、謀叛など身に覚えのない正純はそれを毅然とはねつけたため、激怒した秀忠は改易と幽閉を命じてしまった。
一連の顛末は秀忠の腹心で正純のライバルだった土井利勝(どい・としかつ)による謀略説。
奥平家に嫁いでいた秀忠の姉・亀姫(かめ)が、宇都宮から下総古河に転封させられ後釜に正純が座ったこと、一人娘が嫁いだ大久保家が正純の讒言で改易された(と彼女は見なした)ことを恨み、弟の秀忠に正純を讒言した説。
などが囁かれ、また宇都宮城の無断改修から宿泊した秀忠を機械仕掛けで暗殺しようと企んだという「宇都宮釣り天井事件」の逸話が創られた。
秀忠は重臣中の重臣だった正純の改易について諸大名に説明して回るという異例の対応を取り、説明を受けた細川忠利(ほそかわ・ただとし)は福島正則の改易に正純が反対したこと、宇都宮15万石を得てから数年経って返上を言い出したことが原因であると書き記している。
また関ヶ原の戦いの折、秀忠は真田家の上田城を攻めたため本戦に間に合わず家康から叱責されたが、その際に秀忠のもとには正信が参謀に付いており、正純は父の不手際だったと詫び処罰を願い出て秀忠に感謝されたという逸話があり、命までは取らず幽閉に留めた理由ともされる。
正純は73歳で没するまで15年間にわたり幽閉され、ともに幽閉となった息子にも先立たれた。
逃亡を防ぐため窓や戸は全て板で釘付けにされ、陽もろくに差さない中での軟禁生活を強いられたという。
孫らは正純の死後に他家へ仕官し、旗本として存続している。