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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―前田利長  二代目の苦労

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戦国列伝―前田利長  二代目の苦労


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前田利長(まえだ・としなが)
尾張の人(1562~1614)

前田利家の嫡子。幼名は父と同じ犬千代(いぬちよ)で、はじめは前田利勝(としかつ)と名乗った。
織田信長の娘・永姫(えい)をめとり、父の旧領を与えられるなど若くして将来を期待されたが1582年、信長が本能寺の変で討たれると時代のうねりに巻き込まれる。
変の直後には当時7歳の妻を故郷の尾張荒子に匿い、自身は織田信雄(のぶかつ)か蒲生賢秀(がもう・かたひで)に合流し明智光秀に対抗した。

変後は父とともに柴田勝家の傘下に入ったが、1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家と親友・羽柴秀吉が争い、板挟みとなった利家は戦線離脱し秀吉の勝利を決定づけた。
勝家は撤退中、利家の居城に立ち寄ると恨み言の一つも言わず、今までの労をねぎらい茶漬けを一杯だけ所望し北ノ庄城に引き上げた。
利家は秀吉のもとで北ノ庄城攻めに加わったが、利長は置いていこうと考えた。しかし妻まつはあえて息子を送り出した。父に隠れて従軍したためか利長にはわずか2騎の供回りしか同行しなかったという。
その後は父とともに秀吉配下として各地を転戦し、1585年には越中に32万石を与えられた。
1598年に秀吉が没し、翌年に利家も没すると家督とともに加賀金沢26万石を受け継いだ。

利家は五大老として諸大名へにらみを利かせ、存命中は大きな問題を起こさせなかった。
しかし死後、徳川家康は利家に代わり五大老となるや禁止されていた諸大名との婚姻を進めて連携を強化し、石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派は衝突し、早くも家康の五大老就任の翌日に清正らが三成を襲撃する事件まで起こった。
利長は偉大な父の後継者として反徳川陣営の筆頭に担ぎ上げられようとしたが、3年は上方を離れるなという遺言を無視し、加賀へ引き上げた。
浅野長政(あさの・ながまさ)や増田長盛(ました・ながもり)ら五奉行はすかさず利長に反乱の兆しありと家康に奏上し(そもそも加賀へ引き上げるよう勧めたのも家康で、一連の流れは利長を陥れる謀略と考えられる)家康は加賀征伐を決めた。

前田家は主戦派と降伏派に分かれ激しく議論を戦わせ、利長もはじめは主戦派だったが、豊臣家に援軍要請を断られ、母まつも自ら家康への人質を買って出るなど息子を説得したため、利長は養嗣子の前田利常(としつね)と家康の孫娘の婚姻などを条件に降伏した。
また、まつは江戸へ人質に赴きこれは後の参勤交代の先駆けとなった。

1600年、関ヶ原の戦いで利長は家康率いる東軍につき、丹羽長重(にわ・ながしげ)と戦った。
弟の前田利政(としまさ)が西軍につき出陣しなかったため(妻子を西軍に人質に取られたとも、家康への反感ともいう)戦後に利政の治めていた能登七尾22万石は没収されたうえで利長に与えられ、丹羽軍と戦い制圧した西加賀18万石も領有を認められ加賀・能登・越中に計122万石を有する日本最大の藩である加賀藩が誕生した。
また妹の豪姫(ごう)が嫁いでいた宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は西軍の主力として本戦でも奮闘していたが、利長の嘆願により処刑は免れ八丈島への流罪に留まった。豪姫は前田家に戻ったが他家へ嫁ぐことなく秀家への援助を続けたという。

1605年、利長は44歳の若さで隠居し、男子がいないため養嗣子にしていた異母弟の利常に家督を譲ったが、利常は12歳と幼く、利長は一線で活躍し続けた。
しかし1609年頃から病に倒れ、回復の気配もないまま1614年に53歳で没した。
一説には病を苦にして服毒自殺を遂げたとも伝わるが、父利家も重病に苦しみ最期は痛みに激昂し切腹したとの説もある。

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