三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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松平忠明(まつだいら・ただあき)
三河の人(1583~1644)
徳川家の重臣・奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の四男。母は徳川家康の長女・亀姫(かめ)で、家康の孫に当たる。
6歳で家康の養子になり松平姓を名乗った。10歳の時に兄(次男)が没したためその家督を継ぎ上野7千石を治めた。
17歳で叔父の徳川秀忠から一字拝領し「忠明」に改名し、翌1600年には関ヶ原の戦いにも参戦した。
1610年、伊勢亀山5万石に加増され、1614年、大坂冬の陣では美濃の諸大名を率い河内方面を任された。
もともと美濃勢は兄が率いる予定だったが出陣の直前に病死し、忠明が代役になったため5万石の小身ながら1万3千もの大軍を率いた。
豊臣家との和睦が成立すると、忠明は大坂城の外堀・内堀の埋め立てを命じられ、夏の陣の勝利の布石となった。
戦後、摂津大坂10万石に加増された忠明は戦災復興にあたり抜群の手腕を見せ、復興させるに留まらず運河を広げ市街地を大幅に拡大し、今日の大阪の発展に多大な貢献をした。道頓堀の名付け親だともいう。
徳川秀忠からは絶大な信頼を受け、もし謀叛が起こり自分が斃れたら後を任せるとまで言われた。
1632年、秀忠が没すると遺言により井伊直孝(いい・なおたか)とともに徳川家光の後見人に任じられる。1639年には播磨姫路18万石に加増され西国探題として西国の諸大名を監督した。
また異説はあるが家康の事績を中心に当時の社会情勢や世相を記した「当代記」の著者としても知られる。
1644年、62歳で没した。
無名に近い人物だが、現代の東京と並ぶ大都市・大阪は彼なくしてあり得なかったろう。