三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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松平忠輝(まつだいら・ただてる)
江戸の人(1592~1683)
徳川家康の六男。
母の身分が低く、容貌も醜かったため家康には出生時から疎まれ、下野3万石に過ぎない皆川広照(みながわ・ひろてる)に預けられた。
父に二度目に会ったのは7歳の時で、かつて家康に反目し切腹を命じられた長男・松平信康(のぶやす)に似た容姿に育ってきた忠輝を、家康はますます憎らしく思ったという。
それでも長じると信濃川中島12万石にまで上り、1606年には伊達政宗の長女をめとった。
だが父への反骨心からか粗暴な性格に育ち、養父で家老となっていた皆川広照は素行不良を幕府に訴えさえした。(しかし訴えた広照らが逆に免職となった)
政宗の威光もあり1610年には越後高田を与えられ、川中島と合わせ75万石の大身に上るも、依然として家康とは不仲で、1614年、大坂冬の陣では留守居役を命じられ大いに不満を抱いた。
翌年の大坂夏の陣には参戦したものの、最激戦区となった天王寺への進撃が遅れた。一説に兵力の損耗を嫌った伊達政宗に遅参を命じられたともいうが陰謀論に過ぎるだろうか。
1616年、家康が死の床につくと忠輝も駆けつけたが、面会を許されなかった。
そして父の死から3ヶ月後、徳川秀忠の命で改易となり、伊勢、飛騨、信濃に転々と流された。
息子の松平徳松(とくまつ)は父への同行を許されず、預け先で冷遇され悲嘆のうちに18歳で自害したという。
改易の理由は夏の陣での遅参と、その際に進路を遮った秀忠の旗本を斬り捨てたこと、朝廷への参内を無視して舟遊びに興じていたこと、が挙げられるがいずれも75万石を没収するほどの大罪とは思えず謎は残る。
1682年、忠輝は幽閉先の諏訪で死去した。享年92。
彼が徳川宗家から赦免されたのは実に1984年のことで、それも菩提寺の住職が300回忌に伴い思い立ってのことである。
さんざんな冷遇ぶりは様々な憶測を呼び、家老で死後に多くの大名を巻き込む不正会計事件が発覚した大久保長安(おおくぼ・ながやす)と結託していた、果ては伊達政宗とともに幕府転覆を企んだ、家康や秀忠の暗殺を狙った等とも囁かれる。
一方で織田信長、豊臣秀吉を経て家康の手に渡ったとされる天下人の象徴「野風の笛」が忠輝の所有として現存しており、また75万石もの大領を任されたことから、父子の仲は巷間伝えられるほど悪くなかったのでは、とも言われる。