三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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本多政重(ほんだ・まさしげ)
出身地不明(1580~1647)
徳川家康の軍師を務めた本多正信(まさのぶ)の次男。
出生時、正信は家康のもとを出奔していたため堺の生まれか。
1591年、12歳の時に徳川秀忠の乳母の子を口論の末に斬り殺し、徳川家を出奔した。
その後は大谷吉継を経て宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでも宇喜多軍として家康と戦った。
戦後は父の威光もあってか罪には問われず、福島正則、次いで前田利長(まえだ・としなが)に3万石の高禄で迎えられた。
しかし1603年、逃亡中の宇喜多秀家が捕縛されると、秀家の正室の弟にあたる利長をはばかって前田家を離れた。
翌年、徳川家への接近を図る直江兼続は政重を婿養子に迎えた。
直江姓を継ぎ、兼続の主君・上杉景勝から一字もらい受け直江勝吉(なおえ・かつよし)と改名した。早くも翌年に妻は没してしまうが、兼続は今度は姪の阿虎(おとら)を嫁がせた。(その際に姪の父(兼続の弟)は縁組に反対して出奔している)
だが1611年、上杉家からも離れると藤堂高虎の仲介により前田家に帰参した。
妻の阿虎をはじめ多くの上杉家の家臣が政重を慕って後追いで仕え、その後も上杉家との交流は続いた。
家老として前田家を支え多くの功を立て、1614年には自称していた安房守に実際に任官された。
前田家5代に仕え、1647年に68歳で没した。
父や兄・本多正純(まさずみ)は智謀で知られたが、政重は武勇に優れたため出奔を重ねても多くの大名に招かれ続けた。
一説には正信の密命を帯びて各地の大名のもとを回る間諜の役目を務めていたともされる。
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本多忠朝(ほんだ・ただとも)
三河の人(1582~1615)
本多忠勝の次男。稲姫の弟。
父に劣らず武勇に優れ1600年、関ヶ原の戦いでは父とともに手柄を立てた。
戦後、忠勝が伊勢桑名に移封されると、その旧領である上総大多喜5万石を与えられた。
1610年、忠勝が没し遺言で1万5千両を忠朝に遺した。だが忠朝は兄の本多忠政(ただまさ)の方が所領は広く軍役も重いからと、これを返上した。忠政も父の遺命に背けないと受け取ろうとせず、幕府の裁定を仰ぎ兄弟で折半することになった。
しかし忠朝は「いつか兄が困った時のために」と取り分は蔵に入れて封をしたという。
1614年、大坂冬の陣では泥酔しているところに奇襲を受け敗走した。
さらに自軍の配置された前方に塀があったため場所替えを徳川家康に申し入れると「図体ばかりでかい役立たずめ」と叱責された。
発奮した忠朝は翌1615年、大坂夏の陣で先鋒を願い出ると、毛利勝永(もうり・かつなが)の陣に突撃を仕掛け戦死した。
死の間際「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言い遺したとされ、彼の墓所には現在もなお禁酒を願う参拝客が訪れるという。
戦後、家康はその死を悼み、遺児の本多政勝(まさかつ)を大和郡山15万石の藩主に封じ、生還した5人の家臣には感状を与えた。
また真田信之に嫁いだ姉の稲姫は、夏の陣に出陣した二人の息子が無事に帰ると「実家では弟が戦死したのだから、あなた達のどちらかが戦死すれば真田家の面目が立ったのに」と言い放ったという。
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本多重次(ほんだ しげつぐ)
三河の人(1529~1596)
徳川家の重臣。通称は作左衛門(さくざえもん)で勇猛かつ非常に激しやすかったことから「鬼作左」と呼ばれた。
高力清長(こうりき・きよなが)、天野康景(あまの・やすかげ)とともに奉行を務め、公明正大、即断即決で知られた。
また三人はそれぞれの性格から「仏高力、鬼作左、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛(さぶろべえ)」とうたわれた。
厳しくも温かい性格は民衆に慕われ、ある時、家康が立て札に法令を掲げさせたが、それを読んだ重次はこんな難解な文章では伝わらないと憤慨し、自ら平易な文で書き下すと、最後に「以上のことを守らなければ作左が叱る」と付け加えた、という逸話が広く伝わる。
また妻に宛てた手紙である「一筆啓上、火の用心、お仙(息子)泣かすな、馬肥やせ」は日本一短い手紙、武士の手紙の見本として著名である。
軍事面でも活躍し、三河一向一揆の際には一向宗門徒の多くが一揆方につくなか、改宗してまで徳川家康に尽くした。
三方ヶ原の戦いでは数十人の敵に囲まれるも、突かれた槍をつかんで敵兵を引きずり下ろすと、馬を奪い包囲を破ったと伝わる。
一方で体中に傷を負い、片目と片足を失い、指も数本無くしていたという。
1585年、家康が悪性の腫瘍を発し危篤に陥った。近くに明から来ていた名医がいたが、自ら薬を作るほど医学に凝っていた家康は異国の医者を嫌い診察を断った。
すると重次は「助かる命を捨てるとはなんともったいない。殿の後に死ぬのも悲しく、生き残ってもみじめなのでお先に死にます」と言い残し辞去していった。
重次の剛直さをよく知る家康は、本当に死ぬつもりだと慌てて止め、自分の死後に徳川家を頼むと伝えさせた。
だが重次は「私が手足や片目を失いながらも今ここにあるのは殿のおかげです。かつて武田家は徳川家よりも大きく、知勇兼備の士を揃えていながら滅びました。武田の旧臣は我々よりずっと低い身分で耐えています。殿が亡くなれば我らも同じ運命をたどるでしょう」と重ねて治療を受けるよう願い出た。家康も心動かされ、治療を受け完治した。
重次の諫言がなければ家康はここで命を落とし、徳川の世は来なかったかも知れない。
しかし1590年、小田原征伐後に徳川家が関東へ移封されると、秀吉の意向によりわずか3千石を与えられ蟄居となった。
重次は秀吉のもとへ人質に出していた息子を母の病気と偽って呼び戻したり、秀吉の母の世話役を命じられた時、屋敷の周囲に薪を積み上げ、家康に害をなせば火を放つと脅したり、城に立ち寄った秀吉を無視したりと、あからさまに歯向かっていたため、大いに恨みを買っていたという。
1596年、68歳で没した。
家督はお仙こと本多成重(なりしげ)が継ぎ、松平忠直(まつだいら・ただなお)に仕えたが、忠直が改易になると越前丸岡4万石の譜代大名に取り立てられた。
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平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)
三河の人(1542~1612)
徳川十六神将の一人。
主君の徳川家康と同い年で、今川義元の人質時代から側近くに仕えた。
家康からの信頼厚く、長男の松平信康(まつだいら・のぶやす)が元服すると傅役を命じられたが、1579年に織田信長の勘気を蒙り、信康は切腹を命じられた。
親吉は自分の首と引き換えに助命嘆願したが許されず、信康が自害すると責任を取り蟄居した。なお近年の研究では信康自害は信長の命ではなく家康の意向とする説も有力視されている。
1582年、本能寺の変で信長が討たれると、混乱に乗じて家康は甲斐を奪い、親吉に統治させた。
家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されると親吉も上野厩橋3万石に移されたが、1600年の関ヶ原の戦いで家康が覇権を握ると、再び甲斐甲府6万石に戻った。
1603年、徳川義直(よしなお)が甲斐25万石に封ぜられた時も、義直が幼少のため親吉が傅役かつ代理として甲斐を統治した。
義直からの信頼も厚く、尾張に移封となると家老として藩政を任され、尾張犬山に12万石を得た。
1611年、70歳で没した。
親吉には男子が無かったため家康は自分の八男を養嗣子として与えていたが、彼も1600年に没しており、平岩家は断絶の危機に見舞われた。
親吉は所領を義直に譲るよう遺言していたが、家康は八方手を尽くして私生児を探し、ようやく見つけたものの母親に否定されてしまい、やむなく断絶となった。
こうして本家は途絶えたものの、庶家は義直に仕え、また他の一族は姫路で現在まで続いている。
~滅私奉公の男~
無私無欲の性格を表す逸話がいくつも伝わっている。
秀吉が伏見城を築いた時のこと、本多忠勝、井伊直政、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、親吉らに祝儀として黄金百枚を与えた。
忠勝と直政は受け取り家康には黙っていた。康政は家康に報告し、許可を得てから懐に収めた。
親吉は「家康に禄を受け衣食足りているのに受け取るいわれはない」と突き返したという。
親吉の弟が、若い頃の榊原康政と諍いを起こし、斬られて傷を負った。
すでに家老の地位にいた親吉は「康政は今は小身だが才知に長け勇敢で、いずれ主君の役に立つ傑物だ。弟は人に斬られる程度の役立たずである」と裁定し、弟に兵法を習うのをやめさせ、逆に康政を推挙したという。
1611年、家康と豊臣秀頼(ひでより)が会見した後、同席していた加藤清正が急死した。
親吉も9ヶ月後に没しており、それを受けて毒まんじゅうによる暗殺説がささやかれ、後に歌舞伎の題材となった。
内容は以下の通りである。
家康は秀頼の暗殺を企み、遅効性の毒を仕込んだ毒まんじゅうを秀頼に勧めた。警戒を解くため親吉が進んで食べたが、意図を見抜いた清正が横からまんじゅうを全て平らげ、揃って毒死したというのである。
創作にすぎないが、この会見から2年のうちに池田輝政(いけだ・てるまさ)、浅野幸長(あさの・よしなが)ら豊臣恩顧の大名が相次いで(それも清正と同じ病名で)急死し、毒殺説がささやかれ、また親吉も若い頃に信長の命を受け、家康の叔父である水野信元(みずの・のぶもと)を暗殺しており、虚実入り交ざったいくらかの信憑性を与えている。
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丹羽長重(にわ・ながしげ)
尾張の人(1571~1637)
織田信長の重臣にして親友・丹羽長秀(ながひで)の嫡子。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、父とともに羽柴秀吉に従い、数々の戦に出た。
長秀が体調を崩したため代わって指揮を取り、1585年に没すると越前・若狭・加賀の計123万石を継いだ。
だが同年、家臣が敵方に内応したと難癖を付けられ越前・加賀を没収され若狭15万石に大減封された上に、重臣の長束正家(なつか・まさいえ)、溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ)、村上頼勝(むらかみ・よりかつ)らを秀吉の直臣として召し上げられた。
さらに1587年、またも家臣の不祥事を口実に若狭も取り上げられ、父の死からわずか2年で加賀松任4万石にまで転落した。
一連の減封は外様で最大勢力に近かった丹羽家の力を削ぐための秀吉の工作と思われる。
それ以上の処罰は受けず、1590年、小田原征伐の軍功により加賀小松12万石に加増のうえ転封となった。同時に従三位参議の官位を得たため、参議の中国名にちなみ「小松宰相」と呼ばれた。
1598年、秀吉と前田利家が相次いで没すると、徳川家康からは利家の嫡子で領地を接する前田利長(としなが)を監視する密命を受けた。
1600年、関ヶ原の戦いでは密命を愚直に守ったわけではあるまいが、東軍についた前田家に対抗するように西軍につき、激しく争ったため戦後にはついに改易となった。
しかし築城技術に優れ、実直な性格の長重は家康らに信頼され1603年には常陸古渡1万石を与えられ大名に復帰した。
1617年にはやはり西軍に与し改易されながらも大名に復した立花宗茂とともに徳川家光の御伽衆に抜擢された。同時に任官された4人の中で長重は最年少である。
その後は2万石、5万石と加増を重ね1627年には陸奥白河10万石に上った。関ヶ原で西軍に与し改易された後に10万石を得たのは長重と立花宗茂の2人だけである。
丹羽家の再興を聞き、離散していたかつての旧臣たちが次々と舞い戻り、またもともと白河を治めていた蒲生家の旧臣も召し抱え城が手狭となり、新たに白河小峰城を築いたため丹羽家の財政は逼迫したと伝わる。
1637年、67歳で没した。
子や家臣らに「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め。しかし機転を利かせすぎたり、媚びへつらうのは良くない」と遺言したという。
家督は子の丹羽光重(みつしげ)が継ぎ、後に陸奥二本松10万石に転封となり幕末まで続いた。
光重は茶道や絵画の腕に優れ、作品は現存している。
※アイコンは南華老仙
南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)
陸奥の人(1536?~1643)
徳川家康の側近。
出自を語らなかったため前半生の事績は不確かだが、蘆名家の一族だという。
はじめは随風(ずいふう)と名乗り天台宗を修めたが、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを機に山を降り、武田信玄に招かれ甲斐に移った。
その後は蘆名家に招かれ陸奥へ、上野、武蔵と関東を転々とし、やがて天海を名乗ると1590年、小田原征伐の頃に徳川家康に仕えた。
僧侶ながら家康の参謀として政治・軍事を問わず献策し、朝廷との交渉役も務めた。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は幕府を開くにあたり、天海の意見をもとに江戸を選んだ。
天海は風水や陰陽道に基づき呪術的に江戸を守るため区画割りや設計を行ったといい、1640年に完成するまで全工程に関わった。
1616年、危篤に陥った家康は天海と、臨済宗の僧侶でやはり参謀を務めた以心崇伝(いしん・すうでん)に自身の葬儀を委ねた。
二人の意見は対立したが、天海の主張が通り家康は「東照大権現」として日光に葬られた。
天海は家康の死後も徳川幕府に重用され、没した時には百歳を悠に超える長命だったという。
~~天海=明智光秀説~~
謎に包まれた前半生から創作では彼を12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)の落胤とするなど様々な説が挙げられるが、中でも最も著名なのは明智光秀と同一人物とするものである。
以下にその傍証を記す。
・日光東照宮の装飾に多数の桔梗紋が用いられているがこれは明智家の家紋である
・天海の墓所に天海自ら名づけた「明智平」という地名がある
・比叡山には光秀が没した1582年以降に「明智光秀」の名で寄進された石碑が残る
・実戦経験が無いはずの天海の甲冑が現存し、関ヶ原の屏風絵には家康本陣に天海の姿がある
・徳川家光の乳母を務め後に絶大な権力を有した春日局は、光秀の腹心・斎藤利三(さいとう・としみつ)の娘
・光秀の孫にあたる織田昌澄(おだ・まさずみ)は大坂の陣で豊臣方についたが、戦後に助命されたばかりか旗本に登用された
それぞれ反証もあるがいずれにしろ夢のある話であり、さるテレビ番組で天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ「同一人物か、親子など非常に近しい人物」という結果が出たという。
いつか真偽が明らかになる日は来るだろうか。
※アイコンは諸葛瑾
成瀬正成(なるせ・まさなり)
三河の人(1567~1625)
幼少の頃から徳川家康に仕える。
1584年、小牧・長久手の戦いで初陣を飾り、敵陣に飛び込み兜首を一つ挙げ、家康から5百石と脇差を与えられた。
翌年には根来衆50名を17歳にして任され、後に「根来組」として名を馳せる鉄砲隊の前身となった。
1592年、文禄の役を前に大坂で馬揃えをした際、その勇姿が豊臣秀吉の目に留まり5万石で誘われたが「二君に仕えるくらいならば腹を切る」と涙ながらに固辞したという逸話が伝わる。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の使い番とともに根来組を率いて先鋒を務め、その武功から堺奉行に抜擢され、後には本多正純(ほんだ・まさずみ)、安藤直次(あんどう・なおつぐ)とともに幕政を取り仕切った。三人の中で正成は最年少である。
1610年、家康の九男・徳川義直(よしなお)の附家老に任じられた。
その際、家康はもし義直が謀叛を企んだらすぐに知らせるよう言い含めたが、正成は「家老として付けられるからには主君は義直様一人。義直様が謀叛するなら私は従うまでです」と断り、その忠誠心に家康はかえって感心したという。
正成は幼い義直に代わり藩政や戦場での采配、同じく附家老だった平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)が没すると平岩家の兵の指揮と家老役、さらに安藤直次とともに幕府軍の軍議、諸大名の統制と八面六臂の活躍をした。
1614年、大坂冬の陣の後に徳川家と豊臣家が和睦すると、和睦の条件として付けられた大坂城の堀の埋め立てを正成や松平忠明(まつだいら・ただあき)らが担当した。
惣掘(外堀)の埋立てだけだったはずが、正成は全ての堀を埋め始めたため大坂方が抗議すると「総堀(全ての堀)の埋め立てと聞いている」ととぼけて工事を強行し、翌年の夏の陣で大坂方は籠城戦を封じられた。
1625年、59歳で没した。
病床で明日をも知れない身となった正成は、家康の眠る日光東照宮に詣でたいと言い張り家臣を困らせた。
やむなく布団を板に乗せ担ぎ上げると、駕籠に乗せられたと思い正成は「日光はまだか」と尋ね、家臣は布団を揺らしながら「もうすぐです」と答えた。それを繰り返すうちに正成は息を引き取ったという。
その後も成瀬家は代々、尾張徳川藩の附家老を務めた。
※アイコンは曹昂
徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)
京の人(1602~1671)
徳川家康の十男。紀州徳川家の祖。
2歳にして常陸水戸20万石の藩主となる。水戸には入らず家康のもとで養育され、1610年には9歳で駿河府中50万石に加増された。
1614年、大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の夏の陣では先陣を希望するも却下された。家臣は「まだお若いからいくらでも機会はある」と慰めたが頼宣は「14歳の時が2度あるものか」と憤り、居並ぶ諸大名を感嘆させ、家康も「今の一言が槍(手柄)である」と褒めたと伝わる。
1617年、すでに家康も加藤清正も没していたが、婚約していた清正の五女を正室とした。
1619年、紀伊和歌山55万石に転封となった。これは二代将軍・徳川秀忠による権威付けの一環とする説があり、家康が直々に縁の深い駿府を与えた弟ですら、将軍家は意のままにできると内外に示すための処置であるとされる。なお駿府はその後秀忠の子に与えられており、説の裏付けとなっている。
ともあれ頼宣は数々の政策を打ち出し紀州藩の繁栄の基礎を築いた。
時は下り1651年、由井正雪の乱が起こると、正雪が頼宣の文書を偽造し用いていたため、謀叛の疑いを掛けられた。
幕府が厳しく尋問すると、頼宣は「外様大名ではなく私ならば天下も安泰ではないか」と言い放った。外様ならば事実はどうあれ処罰せざるを得ず、それを契機に反乱の懸念もあるが、私が裏切るわけはない、という意味である。
堂々たる釈明で嫌疑は晴れたが、その戦国武将気質を嫌われてか、そのまま江戸に留め置かれ10年もの間、紀州へ帰れなかった。
1667年に隠居するまで実に47年にわたり藩政を執り、70歳で没した。
※アイコンは曹髦
徳川義直(とくがわ・よしなお)
京の人(1601~1650)
徳川家康の九男。尾張徳川家の祖。
3歳にして甲斐甲府25万石の藩主となる。甲斐には入らず家康のもとで養育され、藩政は傅役でもある平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)が担当し、家臣には武田家の旧臣が多く配された。
1607年、死去した松平忠吉(まつだいら・ただよし)に代わり尾張清州に移され、親吉ら家臣団もそれに付き従った。
実際に義直が尾張に入ったのは大坂の陣で初陣を済ませ、家康も没した後の1616年である。
長じると自ら藩政に携わり数々の政策を打ち出し当地の発展に尽くし、病を得て50歳で没した。
義直は文武両道に優れ、多くの印象的な逸話が伝わる。
勉学を好み、家康から多くの書物を譲り受け、それに自ら収集した書誌を合わせ「蓬左文庫」と称し「決して門外不出にすべからず」と命じ広く公開した。これが日本における図書館の始まりとされる。
柳生利厳(やぎゅう・としよし)に新陰流の相伝を受け、寝る時には襲撃を警戒して常に脇差を握り、目を開け絶えず手足を動かしながら眠る術を身につけていたという。
一方できわめて剛直かつ論理的な性格で、筋が立たない話には激しく逆らったため、甥で「生まれながらの将軍」を自認する徳川家光とはたびたび衝突した。
家光が病に伏した時、義直は大軍を率いて江戸に向かい、すわ謀叛かと幕府を慌てさせた。
しかしこれはもし家光が没すれば、この時にはまだ跡継ぎがいなかったため家督争いが起こる懸念があり、万一に備えて江戸城を守るための進軍であった。
1642年、家光の子(後の4代将軍・徳川家綱)が初詣を行った時、義直ら御三家にも同行するよう通達があった。
しかし義直は「無位無官の者(家綱)に官位のある者が礼をすることはかえって礼に反する」とこれを平然と拒絶したという。
※アイコンは曹丕
徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)
遠江の人(1579~1632)
徳川家康の三男。江戸幕府の第二代征夷大将軍。
長兄・信康(のぶやす)は秀忠の生年に切腹し、次兄の秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子に出され、後に結城家を継いだため三男ながら早くから後継者として育てられた。
1590年、元服すると小田原征伐の際に実質的に人質として秀吉に預けられ、一字拝領し秀忠と名乗った。
織田信雄(おだ・のぶかつ)の娘で秀吉の養女をめとったが、間もなく信雄が秀吉の逆鱗に触れ改易となったため離縁された。
1595年、秀吉の養女で浅井長政の三女・江(ごう)と再婚した。秀吉は浅井長政の長女・淀殿(よど)を側室にしているためいちおう秀吉とは義兄弟となる。
1600年、関ヶ原の戦いで初陣となるが、4万近い大軍を率い中山道を進み信濃上田城を攻めるものの、わずか2千の真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子に翻弄され、また悪天候で家康の進軍命令も届かず、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。
諸将の制止を無視して城攻めを決めた秀忠に家康は激怒し、体調不良を名目に面会を断ったという。
それでも父の信頼は揺るがず1603年、征夷大将軍となった家康は秀忠を次期将軍候補が任官される右近衛大将に任命させ、徳川家による将軍職の世襲を確定させた。
1605年、家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲る。
家康は隠居し「大御所」と呼ばれるが、実権は依然として握り、秀忠との二頭政治を布いた。
主に秀忠は親藩・譜代大名を統括し、家康は外様大名を担当したという。
1614年、大坂冬の陣では家康とともに出陣した。その際、関ヶ原の遅参を反省してか強行軍で進撃したため、大坂に着いた時には将兵は疲労困憊で、かえって家康に叱責されたとする逸話も伝わる。
翌1615年、夏の陣では真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)、大野治房(おおの・はるふさ)らの突撃により本陣まで切り崩された。
秀忠の馬廻りも多くが戦死し、一時は秀忠と柳生宗矩だけが残される窮地に陥ったが、宗矩が7人を斬り捨て九死に一生を得た。
翌1616年、家康が没すると名実ともに徳川家の中枢に立ち、酒井忠世(さかい・ただよ)、土井利勝(どい・としかつ)ら有能な側近で周囲を固め、福島正則ら外様の有力大名、本多正純(ほんだ・まさずみ)ら重臣中の重臣、弟の松平忠輝(まつだいら・ただてる)らをも咎があれば改易し、弟の徳川頼宣(よりのぶ)らを江戸から出して尾張・紀伊・水戸に配し、地方を固めるとともに兄弟すら将軍の命令には逆らえないという威権を表した。
また娘の和子(かずこ)を後水尾天皇に嫁がせ朝廷ににらみを利かせ、鎖国政策の手始めとして平戸・長崎以外への外国船の寄港を禁じた。
1623年、将軍職を嫡子の徳川家光に譲るが、父と同じく大御所として二頭政治を布いた。
1630年には孫娘が明正天皇として即位し、秀忠は天皇家の外戚となった。
1632年に死去した。
1958年、霊廟の移築のため秀忠の遺体が掘り起こされ調査したところ、推定身長は当時の平均に近い157.6センチ、遺骨には多くの銃創が残っており、早くから家康の後継者に目され参戦経験も少なく、武勇に優れた印象もない秀忠だが、骨にまで残るほど激しい銃撃にさらされる前線で果敢に指揮を取っていた、という意外な姿がしのばれた。