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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―本多忠朝  禁酒の神様

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戦国列伝―本多忠朝  禁酒の神様


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本多忠朝(ほんだ・ただとも)
三河の人(1582~1615)

本多忠勝の次男。稲姫の弟。
父に劣らず武勇に優れ1600年、関ヶ原の戦いでは父とともに手柄を立てた。
戦後、忠勝が伊勢桑名に移封されると、その旧領である上総大多喜5万石を与えられた。

1610年、忠勝が没し遺言で1万5千両を忠朝に遺した。だが忠朝は兄の本多忠政(ただまさ)の方が所領は広く軍役も重いからと、これを返上した。忠政も父の遺命に背けないと受け取ろうとせず、幕府の裁定を仰ぎ兄弟で折半することになった。
しかし忠朝は「いつか兄が困った時のために」と取り分は蔵に入れて封をしたという。

1614年、大坂冬の陣では泥酔しているところに奇襲を受け敗走した。
さらに自軍の配置された前方に塀があったため場所替えを徳川家康に申し入れると「図体ばかりでかい役立たずめ」と叱責された。

発奮した忠朝は翌1615年、大坂夏の陣で先鋒を願い出ると、毛利勝永(もうり・かつなが)の陣に突撃を仕掛け戦死した。
死の間際「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言い遺したとされ、彼の墓所には現在もなお禁酒を願う参拝客が訪れるという。

戦後、家康はその死を悼み、遺児の本多政勝(まさかつ)を大和郡山15万石の藩主に封じ、生還した5人の家臣には感状を与えた。
また真田信之に嫁いだ姉の稲姫は、夏の陣に出陣した二人の息子が無事に帰ると「実家では弟が戦死したのだから、あなた達のどちらかが戦死すれば真田家の面目が立ったのに」と言い放ったという。

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