三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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本多重次(ほんだ しげつぐ)
三河の人(1529~1596)
徳川家の重臣。通称は作左衛門(さくざえもん)で勇猛かつ非常に激しやすかったことから「鬼作左」と呼ばれた。
高力清長(こうりき・きよなが)、天野康景(あまの・やすかげ)とともに奉行を務め、公明正大、即断即決で知られた。
また三人はそれぞれの性格から「仏高力、鬼作左、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛(さぶろべえ)」とうたわれた。
厳しくも温かい性格は民衆に慕われ、ある時、家康が立て札に法令を掲げさせたが、それを読んだ重次はこんな難解な文章では伝わらないと憤慨し、自ら平易な文で書き下すと、最後に「以上のことを守らなければ作左が叱る」と付け加えた、という逸話が広く伝わる。
また妻に宛てた手紙である「一筆啓上、火の用心、お仙(息子)泣かすな、馬肥やせ」は日本一短い手紙、武士の手紙の見本として著名である。
軍事面でも活躍し、三河一向一揆の際には一向宗門徒の多くが一揆方につくなか、改宗してまで徳川家康に尽くした。
三方ヶ原の戦いでは数十人の敵に囲まれるも、突かれた槍をつかんで敵兵を引きずり下ろすと、馬を奪い包囲を破ったと伝わる。
一方で体中に傷を負い、片目と片足を失い、指も数本無くしていたという。
1585年、家康が悪性の腫瘍を発し危篤に陥った。近くに明から来ていた名医がいたが、自ら薬を作るほど医学に凝っていた家康は異国の医者を嫌い診察を断った。
すると重次は「助かる命を捨てるとはなんともったいない。殿の後に死ぬのも悲しく、生き残ってもみじめなのでお先に死にます」と言い残し辞去していった。
重次の剛直さをよく知る家康は、本当に死ぬつもりだと慌てて止め、自分の死後に徳川家を頼むと伝えさせた。
だが重次は「私が手足や片目を失いながらも今ここにあるのは殿のおかげです。かつて武田家は徳川家よりも大きく、知勇兼備の士を揃えていながら滅びました。武田の旧臣は我々よりずっと低い身分で耐えています。殿が亡くなれば我らも同じ運命をたどるでしょう」と重ねて治療を受けるよう願い出た。家康も心動かされ、治療を受け完治した。
重次の諫言がなければ家康はここで命を落とし、徳川の世は来なかったかも知れない。
しかし1590年、小田原征伐後に徳川家が関東へ移封されると、秀吉の意向によりわずか3千石を与えられ蟄居となった。
重次は秀吉のもとへ人質に出していた息子を母の病気と偽って呼び戻したり、秀吉の母の世話役を命じられた時、屋敷の周囲に薪を積み上げ、家康に害をなせば火を放つと脅したり、城に立ち寄った秀吉を無視したりと、あからさまに歯向かっていたため、大いに恨みを買っていたという。
1596年、68歳で没した。
家督はお仙こと本多成重(なりしげ)が継ぎ、松平忠直(まつだいら・ただなお)に仕えたが、忠直が改易になると越前丸岡4万石の譜代大名に取り立てられた。