三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)
京の人(1602~1671)
徳川家康の十男。紀州徳川家の祖。
2歳にして常陸水戸20万石の藩主となる。水戸には入らず家康のもとで養育され、1610年には9歳で駿河府中50万石に加増された。
1614年、大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の夏の陣では先陣を希望するも却下された。家臣は「まだお若いからいくらでも機会はある」と慰めたが頼宣は「14歳の時が2度あるものか」と憤り、居並ぶ諸大名を感嘆させ、家康も「今の一言が槍(手柄)である」と褒めたと伝わる。
1617年、すでに家康も加藤清正も没していたが、婚約していた清正の五女を正室とした。
1619年、紀伊和歌山55万石に転封となった。これは二代将軍・徳川秀忠による権威付けの一環とする説があり、家康が直々に縁の深い駿府を与えた弟ですら、将軍家は意のままにできると内外に示すための処置であるとされる。なお駿府はその後秀忠の子に与えられており、説の裏付けとなっている。
ともあれ頼宣は数々の政策を打ち出し紀州藩の繁栄の基礎を築いた。
時は下り1651年、由井正雪の乱が起こると、正雪が頼宣の文書を偽造し用いていたため、謀叛の疑いを掛けられた。
幕府が厳しく尋問すると、頼宣は「外様大名ではなく私ならば天下も安泰ではないか」と言い放った。外様ならば事実はどうあれ処罰せざるを得ず、それを契機に反乱の懸念もあるが、私が裏切るわけはない、という意味である。
堂々たる釈明で嫌疑は晴れたが、その戦国武将気質を嫌われてか、そのまま江戸に留め置かれ10年もの間、紀州へ帰れなかった。
1667年に隠居するまで実に47年にわたり藩政を執り、70歳で没した。