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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―徳川義直  剛直な九男

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戦国列伝―徳川義直  剛直な九男


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徳川義直(とくがわ・よしなお)
京の人(1601~1650)

徳川家康の九男。尾張徳川家の祖。
3歳にして甲斐甲府25万石の藩主となる。甲斐には入らず家康のもとで養育され、藩政は傅役でもある平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)が担当し、家臣には武田家の旧臣が多く配された。
1607年、死去した松平忠吉(まつだいら・ただよし)に代わり尾張清州に移され、親吉ら家臣団もそれに付き従った。
実際に義直が尾張に入ったのは大坂の陣で初陣を済ませ、家康も没した後の1616年である。
長じると自ら藩政に携わり数々の政策を打ち出し当地の発展に尽くし、病を得て50歳で没した。

義直は文武両道に優れ、多くの印象的な逸話が伝わる。
勉学を好み、家康から多くの書物を譲り受け、それに自ら収集した書誌を合わせ「蓬左文庫」と称し「決して門外不出にすべからず」と命じ広く公開した。これが日本における図書館の始まりとされる。

柳生利厳(やぎゅう・としよし)に新陰流の相伝を受け、寝る時には襲撃を警戒して常に脇差を握り、目を開け絶えず手足を動かしながら眠る術を身につけていたという。

一方できわめて剛直かつ論理的な性格で、筋が立たない話には激しく逆らったため、甥で「生まれながらの将軍」を自認する徳川家光とはたびたび衝突した。
家光が病に伏した時、義直は大軍を率いて江戸に向かい、すわ謀叛かと幕府を慌てさせた。
しかしこれはもし家光が没すれば、この時にはまだ跡継ぎがいなかったため家督争いが起こる懸念があり、万一に備えて江戸城を守るための進軍であった。

1642年、家光の子(後の4代将軍・徳川家綱)が初詣を行った時、義直ら御三家にも同行するよう通達があった。
しかし義直は「無位無官の者(家綱)に官位のある者が礼をすることはかえって礼に反する」とこれを平然と拒絶したという。

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