三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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丹羽長重(にわ・ながしげ)
尾張の人(1571~1637)
織田信長の重臣にして親友・丹羽長秀(ながひで)の嫡子。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、父とともに羽柴秀吉に従い、数々の戦に出た。
長秀が体調を崩したため代わって指揮を取り、1585年に没すると越前・若狭・加賀の計123万石を継いだ。
だが同年、家臣が敵方に内応したと難癖を付けられ越前・加賀を没収され若狭15万石に大減封された上に、重臣の長束正家(なつか・まさいえ)、溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ)、村上頼勝(むらかみ・よりかつ)らを秀吉の直臣として召し上げられた。
さらに1587年、またも家臣の不祥事を口実に若狭も取り上げられ、父の死からわずか2年で加賀松任4万石にまで転落した。
一連の減封は外様で最大勢力に近かった丹羽家の力を削ぐための秀吉の工作と思われる。
それ以上の処罰は受けず、1590年、小田原征伐の軍功により加賀小松12万石に加増のうえ転封となった。同時に従三位参議の官位を得たため、参議の中国名にちなみ「小松宰相」と呼ばれた。
1598年、秀吉と前田利家が相次いで没すると、徳川家康からは利家の嫡子で領地を接する前田利長(としなが)を監視する密命を受けた。
1600年、関ヶ原の戦いでは密命を愚直に守ったわけではあるまいが、東軍についた前田家に対抗するように西軍につき、激しく争ったため戦後にはついに改易となった。
しかし築城技術に優れ、実直な性格の長重は家康らに信頼され1603年には常陸古渡1万石を与えられ大名に復帰した。
1617年にはやはり西軍に与し改易されながらも大名に復した立花宗茂とともに徳川家光の御伽衆に抜擢された。同時に任官された4人の中で長重は最年少である。
その後は2万石、5万石と加増を重ね1627年には陸奥白河10万石に上った。関ヶ原で西軍に与し改易された後に10万石を得たのは長重と立花宗茂の2人だけである。
丹羽家の再興を聞き、離散していたかつての旧臣たちが次々と舞い戻り、またもともと白河を治めていた蒲生家の旧臣も召し抱え城が手狭となり、新たに白河小峰城を築いたため丹羽家の財政は逼迫したと伝わる。
1637年、67歳で没した。
子や家臣らに「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め。しかし機転を利かせすぎたり、媚びへつらうのは良くない」と遺言したという。
家督は子の丹羽光重(みつしげ)が継ぎ、後に陸奥二本松10万石に転封となり幕末まで続いた。
光重は茶道や絵画の腕に優れ、作品は現存している。