三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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土井利勝(どい・としかつ)
三河の人(1573~1644)
徳川秀忠の腹心として絶大な権勢をふるった。
水野信元(みずの・のぶもと)の三男に生まれたが、利勝が3歳の時に父は武田家と内通した嫌疑を掛けられ、織田信長の命で徳川家康によって処刑された。
信元は家康の叔父(母の弟)にあたり、幼い従弟の利勝を哀れんだ家康は、土井家の養子に迎えさせた。
土井家には男子がいたが家康の親類という血筋からか利勝が家督を継いだ。
もともと利勝は土井家の実子であるという説、はては家康の落胤説もあり、当時の家康は正室と対立しており、また我が子同然に利勝をかわいがったとされ、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にすら落胤説は記されている。
なお利勝自身はこの落胤の噂を酷く嫌っていたとされる。
1579年、徳川秀忠が生まれると、29歳の安藤重信(あんどう・しげのぶ)、23歳の青山忠成(あおやま・ただなり)に並び7歳の利勝が傅役を命じられた。
その後は秀忠の腹心として頭角を現していき、1602年には下総小見川1万石を得て大名に列した。
1610年に本多忠勝が没すると、家康の命で秀忠の老中に任じられ、政治面のほぼ全権を握った。
1615年大坂夏の陣では戦功も立て、同年には秀忠の長男・徳川家光の傅役を青山忠成の子・青山忠俊(ただとし)や酒井忠世(さかい・ただよ)らとともに命じられる。
1616年、秀忠とともに一国一城令と武家諸法度を制定し、家康が没すると葬儀を任された。
1622年、家康の側近の筆頭格だった本多正純(ほんだ・まさずみ)が失脚した。
利勝の策謀ともささやかれ、最大のライバルを蹴落とした利勝は名実ともに幕府の最高権力を手中にしたと言える。
1623年、家光が将軍に就任すると、慣例では側近も入れ替わるのが常だったが利勝、青山忠俊、酒井忠世は揃って留任した。
秀忠はその数年前に譲位を考えていたが利勝の進言により遅れさせたともいう。
1635年、武家諸法度に参勤交代などを加えて幕府の支配力を強めた。また徳川忠長(ただなが)と加藤忠広(かとう・ただひろ)が改易された背景には、利勝がわざと家光との不仲を装い、諸大名に謀叛を呼びかけたところ、忠長と忠広だけが家光に密告しなかった、とする説がある。
その後も明治中頃まで用いられる寛永通宝の作成など主要な政治運営に携わり、石高も14万石に上ったが1637年、中風を患ったため老中の辞任を申し出た。
家光は慰留したものの大老に任じ、名誉職として実務からは遠ざけ療養に努めさせた。
1644年、72歳で没した。
利勝が頭角を現していった頃、秀忠の周囲に優れた人材は多く、頭脳や能力で利勝に優っている者もいたが、実直さと公明正大さで利勝は抜きん出ており、その言葉はしばしば模範や教訓に用いられたという。
※アイコンは周処
田中吉政(たなか・よしまさ)
近江の人?(1548~1609)
出自や前半生は不明で、筑後柳川藩主となった後も近江浅井郡の住人に限られる行事の仕切り役を務めたことから、近江郡の農民とする説がある。
1582年頃に羽柴秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)の家老となった。
1585年、秀次が近江八幡43万石を与えられると、他の重臣は周辺の城を任される中、吉政は筆頭家老として秀次の側近くに仕え政務を取り仕切った。
この近江八幡を皮切りに、尾張清州、三河岡崎、筑後柳川と行く先々の任地で抜群の行政手腕を見せ、近代的な都市計画を進めたという。
1590年、小田原征伐の後に織田信雄(おだ・のぶかつ)が失脚すると、空いた尾張に秀次が移された。
吉政にも三河岡崎5万7千石が与えられ、双方の政務に関わった。
1595年、秀次も失脚し多くの一族・重臣とともに自害を命じられたが、吉政は「よく秀次を諫言していた」としてかえって加増された。
秀吉も没するといち早く徳川家康に接近し、1600年、関ヶ原の戦いでは福島正則らとともに先鋒を務め岐阜城を落とし、本戦でも石田三成の本隊と戦った。
勝利後には吉政の娘婿とも言われ、ともに熱心なキリシタンでもある明石全登(あかし・てるずみ)の逃亡に手を貸したとされるが、一方で山中に潜伏した石田三成を捕らえる大手柄を立てた。
三成は捕縛後も手厚く遇されたことに感謝し、吉政に秀吉から賜った脇差を授け「他の者に捕まるくらいならお前でよかった」と言ったといい、この脇差は現存している。
関ヶ原の武功により筑後柳川32万石を与えられ、1609年に吉政は62歳で没した。
田中家は次代で無嗣断絶したが(キリスト教の禁教後も取り締まりが緩やかだったため改易されたとも言われる)他家の家臣として血は残している。
~~破天荒な男~~
農民上がりとも言われる吉政は、型にはまらない破天荒な数々の逸話で知られている。
はじめ宮部継潤(みやべ・けいじゅん)に仕えていた頃、茶店で酒を飲み、升を枕に昼寝していた。
するとそばにいた盲人が「一国一城の主になるとうそぶく御仁が升を枕にしたらせいぜい千石どまりでしょう」と忠告した。
吉政はもっともだと反省し、彼に酒と海老を振る舞った。
筑後柳川城主になった時、出迎えの群衆の中に吉政はその盲人の姿を見つけた。吉政はすぐさま検校として召し出し恩に報いたという。
田中家は複数の家紋を用いたが、そのうちの一つ「左巴」はもともと右巴だった。
袴を紺屋に染めさせたところ、手違いで逆向きにされてしまったが、咎めるどころかせっかくだからとそのまま家紋に採用した。
岡崎城主の頃、城下の見回りを日課としていて、領民と親しく口を利き、腹が減ると城から弁当を届けさせその場で食したため、大変慕われたという。
筑後柳川城主になると、城から付近を見回し、海を埋め立て支城を取り壊せば農地が広げられると気づき、すぐさま工事に取り掛からせた。農地拡大としての海の埋め立ても、支城の破却も当時としては画期的な考えである。
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酒井忠勝(さかい・ただかつ)
三河の人(1587~1662)
徳川家康の重臣・酒井忠利(ただとし)の子。
1600年、関ヶ原の戦いで中山道を進む徳川秀忠に従い、14歳で初陣を踏んだ。
1620年、秀忠の命で後継者の徳川家光の付け家老になる。
若い頃の家光は夜間にたびたび城を抜け出し、辻斬りをしているという噂が立った。忠勝が密かに後をつけると小姓のもとへ忍んで行っていた。忠勝は草履を温めて待ち、それに気づいた家光は外出を控えるようになった。
家光と弟の徳川忠長(ただなが)の間で後継者争いが起こった。家光が病に倒れた時、忠長のもとへ豪勢な料理が届けられようとするのを見て「兄が病気な時に食事ができるものか」と激怒し忠勝は料理を下げさせた。
秀忠に無礼討ちされても構いませんと釈明に行くと、逆に「お前は徳川家を支える第一の人物だ」と讃えられた。
それらのことから家光は忠勝に絶大な信頼を注ぎ「我が右手は讃岐(忠勝)、左手は伊豆(松平信綱(まつだいら・のぶつな))とまで呼び、他の家臣とは寝間着姿で話すことがあっても、忠勝と会う時には必ず正装で対したという。
また家光が駿府18万石への加増を打診すると「家康公の旧領はもったいない」と固辞され、ならばと甲府24万石を打診したがやはり断られた。
理由を聞かれた忠勝は「大禄を得れば驕りが生じます。私が驕らなくても次代の者が驕るでしょう。それに大老の私が12万石なら、私より下位の者は加増を遠慮します」と答えた。しかし晩年には危急の際に12万石では大した兵を集められず、もう少しもらっておくべきだったかとも述懐している。
1624年には土井利勝(どい・としかつ)とともに老中となり、1627年に父が没すると遺領を継ぎ、その後も各地に加増を重ね1634年には12万石に上った。
1638年、土井利勝とともに老中職を解かれ、大事を議する時のみ登城を命じられた。これが後の大老職のはじまりとなった。
1651年、家光が没し11歳の徳川家綱(いえつな)が跡を継いだ。
忠勝は諸大名を集めると「幼君が立ち、もし天下を望む者があれば好機である」と言った。保科正之(ほしな・まさゆき)がそれに応じ「いるなら名乗り出よ。踏み潰して家綱公の就任祝いにしてくれる」と続けると、諸大名は平伏した。
ある時、家綱は庭の大石を外へ出すよう命じた。忠勝は「この大きさでは塀を崩すことになり大工事になります」と断った。
松平信綱は「石が邪魔なら穴を掘って埋めてしまえばいい」と知恵を出したが、忠勝は「石はそのままにしておいても害はない。物事が全て自分の思い通りに行くと考えればのちのち難儀が生じるから、あえて家綱様の命令を断ったのだ」と返し信綱を感服させた。
1656年に四男の酒井忠直(ただなお)に家督を譲り隠居し、1662年に76歳で没した。衣服を整え正座したまま息絶えたという。
※アイコンは韓福
高力清長(こうりき・きよなが)
三河の人(1530~1608)
高力家は松平家に仕えていたが1535年に主君と父、祖父が相次いで殺され、6歳の清長は叔父に育てられた。
1552年から松平家を継いだ後の徳川家康に仕える。家康は今川家への人質として駿河に送られ、清長もそれに従った。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると家康は独立し、尾張の織田信長と同盟した。その同盟締結の際にも清長は家康に同行している。
1563年、三河一向一揆では多くの家臣が一揆方についたが清長は家康のもとを離れず、鎮圧後には仏像や経典の散逸を防ぎ、破壊された寺社を復元したため領民から「仏高力」と慕われた。
翌年には本多重次(ほんだ・しげつぐ)、天野康景(あまの・やすかげ)とともに三河岡崎の奉行に命じられその人柄から三者は「仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛」とうたわれた。
その後も遠江攻略戦、姉川の戦いなどで武功を立てた。1572年、三方ヶ原の戦いでも奮戦するが一族の者が数十名、命を落としたという。
1582年、本能寺の変で信長が討たれた時、家康は堺におり窮地に陥ったが、同行する清長らの働きにより無事に三河へ帰り着いた。この時、清長は殿軍を務め銃創を受けたという。
1584年、小牧・長久手の戦いの後に豊臣秀吉へ降伏する使者として立つと、秀吉に大いに気に入られ、以降は会うたびに豊臣姓や官位、脇差や和歌などを贈られた。
1590年、小田原征伐では北条家との交渉を担当し、戦後に家康が関東へ移封となると武蔵岩槻2万石を与えられた。同時に預け地として1万石も任されたが、慣例では自らの収入として勘定すべき預け地の1万石もそのまま年貢として家康に収めた。
また文禄・慶長の役では軍船の建造を命じられたがこの時も、余った建造費を家康に返還しようとし、感心されそのまま褒美として与えられたという。
1599年、嫡子に先立たれ、1600年の関ヶ原の戦い後に隠居すると孫の高力忠房(ただふさ)に家督を譲り隠居した。
1604年、または1608年に没した。享年はどちらも79歳とされる。
忠房もまた祖父に似て統治能力に優れ、徳川家光に見込まれて島原の乱後に同地を任され、見事に復興させている。
※アイコンは高堂隆
大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)
三河の人(1560~1639)
大久保忠世(ただよ)、忠佐(ただすけ)らの弟。八男で本名は大久保忠教(ただたか)。
兄に従い徳川家康に仕え、各地を転戦した。
1582年、高天神城の戦いでは、城主の岡部元信(おかべ・もとのぶ)が決死の突撃を仕掛けた時、まさか先頭に立つ彼が城主とは思わず、軽く槍を合わせただけで家臣に相手を任せてしまい、みすみす大将首を見逃したことを悔やんだという。
1590年、小田原征伐の後に家康が関東に移封となると、忠世は相模小田原を任され、その下で彦左衛門にも3千石が与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の本陣で槍奉行を務めた。
その頃、次兄の忠佐は駿河沼津2万石を治めていたが、一人息子を亡くしてしまい、彦左衛門を養子に迎え跡を継がせたいと打診した。
しかし彦左衛門は「自分の武功ではない」と固辞したため、忠佐の死後に沼津藩は無嗣改易となった。
忠世も没し、その嫡子の大久保忠隣(ただちか)も失脚し改易となると、彦左衛門も連座して改易された。
しかし家康の直臣の旗本としてすぐに復帰し、家康の死後も徳川秀忠・家光の奉行を務めた。
1635年頃から隠居し「三河物語」の執筆に専念したと思われ、1639年に80歳で没した。
死の間際に家光から5千石の加増を打診されたが「余命幾ばくもない自分にはありがたいが不要」とやはり固辞したと伝わる。
死後、「三河物語」をもとに数々の逸話が作られ、講談の英雄「天下の御意見番」として彦左衛門は庶民はもちろん武士にも人気を博した。
再三にわたり加増を固辞した一方で、家臣や浪人たちの仕官のため奔走するなど面倒見がよく、生前から周囲の者に慕われていたのも、その下地となっただろう。
しかし創作色の強い「三河物語」の記述は史実と混同されることも多く、後世の史家や戦国ファンにとっては虚実入り混じったノイズのように厄介な代物でもある。
※アイコンは呂壱
大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)
播磨の人(1545~1613)
徳川家に仕え財政を取り仕切り絶大な権力を握ったが、死後に不正蓄財が発覚し、多くの大名が連座して改易された。
猿楽師の大蔵信安(おおくら・のぶやす)の次男。
父とともに甲斐に流れ着くと、父は武田信玄のお抱えの猿楽師となり、長安は才覚を見出され土屋昌続(つちや・まさつぐ)に仕えた。
姓も土屋に改め、金山の開発や税務を任された。
1575年、長篠の戦いで兄と土屋昌続が戦死し、さらに1582年、武田家も滅亡すると徳川家康に仕えた。
長安が手掛けた邸宅の出来栄えに家康が感心したとも、長安自ら武田家の旧臣を通じて売り込んだとも、また一説には武田勝頼(たけだ・かつより)に疎まれ、猿楽師に戻り三河に移ったところを家康に迎えられたともいう。
徳川家では大久保忠隣(ただちか)の与力に付けられ、大久保姓を賜った。
本能寺の変の混乱に乗じて家康は旧武田領の甲斐と信濃を奪い、本多正信(ほんだ・まさのぶ)と伊奈忠次(いな・ただつぐ)に甲斐の再建を命じたが、実質的にそれを取り仕切ったのは長安とされる。
1590年、豊臣秀吉の命で関東に移った家康は、長安や伊奈忠次を奉行に任じ、また100万石にも及ぶ直轄領の代官として事務の一切を任せた。
1591年には武蔵八王子8千石(実質9万石)を与えられ、1600年の関ヶ原の戦いでは兵站を担当。
天下人となった家康からは全国の金銀山の開発の他、甲斐・石見・美濃・大和・佐渡の5ヶ国もの奉行や代官を同時に任された。
外様としては唯一の年寄(後の老中)の座に就いた長安は大名はおろかある意味では家康すら凌駕する絶大な権力を握り、日本中の武士が彼の顔色をうかがい、畏怖したという。
また関東の交通網を整備し、現代にも残る一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という単位を制定したのも長安である。
しかし晩年には鉱山の採掘量が衰えるとともに家康の信頼も薄れ、全国の代官職も解任されていき、1613年に69歳で没した。黄金の棺に入れ豪奢な葬儀を催すよう遺言したとされ、死因は同時期に相次いで没した加藤清正、池田輝政(いけだ・てるまさ)、浅野幸長(あさの・よしなが)らと同じ腎虚とされるが、老齢でもあり清正らとは違いあまり暗殺説は囁かれていない。
その死からわずか十数日後、権力を隠れ蓑に莫大な不正蓄財をしていたことが発覚し、70~80人とも言われる側室に産ませ、不正にも関わった7人の男子は全員処刑され、一族や利益を得ていた石川康長(いしかわ・やすなが)ら諸大名が処罰された。
猿楽師の生まれ、事務方として徳川幕府の裏での暗躍、死後の電光石火の処罰は様々な憶測や興味を呼び、その生涯や人物像は多くの創作者によって脚色され、また陰謀論など戦国ファンの間では今なお論争が続いている。
※アイコンは申耽
大久保忠世(おおくぼ・ただよ)
三河の人(1532~1594)
徳川十六神将の一人。
大久保家は家康の祖父の代から仕え、忠世の家は庶流ながら多くの武功を立てたため本家の勢力をしのいでいた。
忠世も弟の大久保忠佐(ただすけ)とともに武勇に優れ、1573年の三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励まそうと、武田軍を闇にまぎれて銃撃し、武田信玄をして「勝ちても恐ろしき敵」と感心させた。(ただしこの逸話は下の弟・大久保彦左衛門(ひこざえもん)の著作によるもので信憑性は薄い)
また1575年、長篠の戦いでも活躍し織田信長から「良い膏薬のように敵に貼り付き離れない」と「膏薬侍」なるいかにも信長らしいあだ名を付けられた。
武勇のみならず政治手腕にも優れ、また出奔していた本多正信(ほんだ・まさのぶ)の帰参を助けたり、若く血気にはやる井伊直政をたしなめたりと、人格者の一面も併せ持った。
いざという時の出費に備え、1月のうち7日は断食して金を貯めていたという逸話も伝わる。
1594年、63歳で没した。
家督は嫡子の大久保忠隣(ただちか)が継ぎ、徳川秀忠に仕え絶大な権勢を誇ったが、突如として改易された。
忠隣は没するまで罪を赦されなかったが、死後に孫は帰参を許され藩主に復帰している。
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大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)
三河の人(1553~1628)
徳川十六神将に数えられる大久保忠世(ただよ)の嫡子。
11歳で徳川家康に仕え、16歳で初陣を飾った。父とともに家康の下で戦い、三方ヶ原の戦いでは全軍が潰走するなか、家康のそばを離れず付き従い賞賛された。
1582年、本能寺の変の際には堺にいた家康に同行しており、伊賀を越えての逃避行に貢献した。
混乱に乗じて甲斐・信濃を奪うと領国経営を命じられ、後の大久保長安(ちょうあん)を抜擢し大いに腕を振るわせ、大久保姓を与えた。
1590年、小田原征伐後に家康が関東に移封されると、武蔵羽生2万石を与えられた。
さらに家康の跡取りとなる徳川秀忠の家老につけられ、1594年に父・忠世が没すると家督とともに遺領の相模小田原6万5千石を継いだ。
豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が失脚した際、秀次は秀忠を人質に取り仲介役を強制しようとしたが、忠隣がそれを察して間に入り、巧みに時間稼ぎをしてその隙に秀忠を避難させたという逸話がある。
また家康が重臣を集め誰を後継者にすべきか論じさせた時、武勇に勝る結城秀康(ゆうき・ひでやす)や松平忠吉(まつだいら・ただよし)の名が挙がるなか、忠隣は武名で劣る秀忠の名を挙げたという。
1600年、関ヶ原の戦いでは中山道を進む秀忠に従い、途上の信濃上田城の攻撃を主張し、反対する本多正信(ほんだ・まさのぶ)と衝突。秀忠は攻撃を採用したが真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子の激しい抵抗により甚大な被害を蒙り、また天候の悪化なども重なり関ヶ原の本戦には間に合わなかった。
1601年、上野高崎13万石への加増を断り秀忠のもとに残り、1610年には老中に就任し、征夷大将軍となった秀忠の片腕として、実質的に幕府の最高権力者の一人に上り詰めた。
しかし翌年に病で長男に先立たれると、失意のあまり政務に支障をきたし、家康や周囲の者の不興を買った。
さらに1613年、幕府の許可無く養女を他家に嫁がせ、秀忠の怒りまで買い、娘婿を改易された。忠隣も処分に憤り秀忠との関係が悪化するなか、大久保長安が没するとすぐさま莫大な不正蓄財が発覚した。
窮地に追い込まれた忠隣が謀叛を企んでいるという噂すら流れ、ついに翌年1月、改易処分が下された。
改易を伝える使者として板倉勝重(いたくら・かつしげ)が到着した時、忠隣は京の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。勝重が来たと聞くや全てを悟り「流罪となっては将棋も指せなくなる。この一局が終わるまで待ってもらいたい」と言い、勝重もそれを許した。
京の民衆は処分を知ると、忠隣の謀叛による大乱を恐れ家財道具をまとめて逃げ出す準備にかかったという。
6日後には小田原城は本丸を残し取り壊され、無嗣断絶した叔父の大久保忠佐(ただすけ)の城も破却された。
忠隣は近江に配流となり、井伊直孝(いい・なおたか)に身柄を預けられ、わずか5千石の知行を与えられ蟄居した。
何度となく弁明書を提出したものの許されることはなく(家康の死後、井伊直孝が代わりに弁明しようとしたが幕府の怒りを買う真似をするなと忠隣が止めたという逸話も伝わる)1628年、75歳で没した。
大久保家は歴代の武功から存続を許され、忠隣の跡は孫の大久保忠職(ただもと)が継いだ。
その次代に小田原藩主に返り咲き、また忠隣に連座し謹慎していた次男の石川忠総(いしかわ・ただふさ)は早期に帰参を許され、大坂の陣で武功を立て大名に列している。
改易の理由として政敵の本多正信・正純(まさずみ)父子による陰謀論がささやかれるが、正信は小田原に残された忠隣の母や妻の消息を伝えており、むしろ親しい間柄にあった。
また忠隣の叔父・大久保彦左衛門(ひこざえもん)も正信は忠隣に恩があり、両者の間に諍いなど無いと断じている。
※アイコンは張紘
伊奈忠次(いな・ただつぐ)
三河の人(1550~1610)
徳川家康に仕えた名臣。
1563年、父の伊奈忠家(ただいえ)は三河一向一揆に加わるため家康のもとを出奔した。
だが1575年、長篠の戦いで武功を立て帰参を許された。忠次は父とともに家康の嫡子・徳川信康(のぶやす)のもとに付けられたが、信康が武田家に内通した嫌疑を掛けられ自害を命じられると、再び父子は出奔し和泉堺へ逃げた。
1582年、本能寺の変が起こると堺を遊覧中だった徳川家康はわずかな供回りしか連れておらず窮地に陥ったが、忠次が足下に駆けつけ帰国を手伝ったため再び帰参を許された。
その後は奉行として頭角を現していき、兵站や交通網の整備を一手に担った。
1590年、家康が関東に移ると大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)らとともに代官を務め、徳川家の関東支配と発展に大きく貢献した。
その際の逸話として以下の話が伝わる。
小田原城の米蔵の備蓄量を調べるよう命じられると、忠次はわずか数日でそれを終えてしまった。
戦国最大の巨城と言われた小田原城には無数の米蔵があるのにと、あまりの早さに家康がいぶかると、忠次は「米蔵を一つ一つ数えていたら膨大な時間がかかり、そのうえ正確ではなく、不正を働く者が出るかもしれません。だから付近の村長に命じて城に納めた租税の量を報告させました」と答え、家康を感嘆させたという。
1610年、61歳で没した。
内政担当のためその事績はあまり表に出ないが、関東全域の検地、開発、河川改修、治水工事などその働きは多岐にわたり、今日の関東の発展、首都東京の繁栄への貢献は計り知れない。
武士や商人はもとより農民にも養蚕や製塩技術、桑や麻の栽培方法を教えたためまるで神仏のように慕われたと言われ、次男で父の仕事を引き継いだ伊奈忠治(ただはる)ともども伊奈町として現在も(合併により忠治のほうは消滅したが)埼玉県に残っている。
また関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はそのほとんどが忠次の官位である備前守に由来している。
※アイコンは吉平
以心崇伝(いしん・すうでん)
京の人(1569~1633)
徳川家康に仕えた臨済宗の僧侶。南禅寺金地院に住したため、金地院(こんちいん)崇伝とも呼ばれ、本来の姓は一色。
徳川幕府の法制立案、外交、宗教統制を担当し「黒衣の宰相」の異名を取った。
室町幕府の直臣である一色家の次男に生まれる。
名家の出で将来を約束されていたが、5歳の時に将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が織田信長に追放され、幕府が滅亡したため南禅寺で出家した。
その後は官寺の中で最も格式高い南禅寺で学び、全国各地の住職を務め、1605年には37歳にして臨済宗五山派の最高位についた。
1608年、豊臣秀吉や家康の政治顧問を務めた西笑承兌(さいしょう・じょうたい)の勧めにより家康に仕えた。
すぐに信任を受け幕政に関わり、1610年には駿府城内に建立した金地院を与えられる。
諸大名はもとより明、朝鮮、タイ、ベトナムなど諸外国との交渉も手掛け、1613年にはバテレン追放令を起草した。崇伝の日記によると一晩で仕上げたとされ、その後も武家諸法度や禁中並公家諸法度を起草し、家康はその事務能力の高さをますます評価し、孫(徳川家光)の命名さえ相談するほどだった。
1614年、大坂の陣の発端となった方広寺の鐘銘事件で「国家安康」、「君臣豊楽」の文言に難癖をつけたのは長らく崇伝とされてきたが、近年の研究では疑問が持たれている。
1616年、家康が没すると葬儀を取り仕切った。だが吉田神道で神格化を行おうとすると、同じく僧侶で崇伝と並び称された南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)が「山王之神道」なる聞いたこともない神道を持ち出し、家康の遺言であると押し切り、東照大権現として神格化した。
1627年には紫衣事件(朝廷が幕府に無断で紫衣を授与することを禁じ、構わず与えた天皇の勅許を幕府が無効にした)が起こり、それに反対した高僧を流罪としたことにより、幕府の法度は天皇の勅許に優先するという先例を作り、将軍家が天皇より優位だとする権威付けを果たした。
しかし強引な手法は反発も呼び、人々からは「黒衣の宰相」と呼ばれ、事件で処罰された沢庵宗彭(たくあん・そうほう)などは崇伝を「天魔外道」とさげすんだという。
1633年、65歳で没した。
崇伝のこなした多岐にわたる役割を受け継げる者などいるはずもなく、職務は分散して引き継がれていった。