三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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安藤直次(あんどう・なおつぐ)
三河の人(1555~1635)
幼少期から徳川家康に仕える。
1570年、姉川の戦いで初陣を踏み、以降の徳川家の重要な戦のほとんどに参戦した。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の使い番として奔走し、その後は本多正純(ほんだ・まさずみ)、成瀬正成(なるせ・まさなり)らとともに幕政を取り仕切った。
しかし直次の禄は同世代の家臣と比べて少なく、長らく5千石のままだった。
成瀬正成が家康に「直次だけが加増されていないが彼は一言も不満を言いません」と告げると、家康はただちに5千石を加増して大名に列し、さらに十年分の禄として5万石の米を与えたという。
1610年には家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)の傅役となり、1614年からの大坂の陣では13歳と幼い頼宣を補佐し采配を振るった。
1615年、大坂夏の陣では嫡子の安藤重能(しげよし)が戦死し、家臣が遺体を収容しようとするとそれを押しとどめ「犬にでも食わせろ」と見向きもせずに指揮を執り続け、戦後に嘆き悲しんだという。
ともに幕政を回してきた本多正純の人となりを観察し、直次は「いずれ改易されるだろう」と言った。
家康の死後、正純はすぐに2万石を加増されたが直次は「この後を見よ」と言い、さらに10万石を加増された時も「いよいよ滅びに近づいた」と言い、その理由を「かつて上様(徳川秀忠)が真田昌幸(さなだ・まさゆき)に敗れ関ヶ原の戦いに遅参した折、正純は父の本多正信(まさのぶ)に責任があるとして切腹させるべきだと家康公に申し出た。息子が父親を切腹させようとするなど天罰が下って当然である」と述べた。
間もなく正純は失脚し改易となり、直次の目の正しさが証明された。
1619年、頼宣が紀伊和歌山に移ると、直次も附家老として従い紀伊田辺に3万8千石を与えられた。
頼宣は長じると「自分が大名としていられるのは直次のおかげだ」と述懐した。
1635年、81歳で没した。
跡を継いだ次男も1年後に没したがその息子が跡を継ぎ、彼も亡くなると男子が無かったため、大坂の陣で戦死した重能の孫が家督を継いだ。
※アイコンは顧雍
天野康景(あまの・やすかげ)
三河の人(1537~1613)
幼い頃から徳川家康の小姓として仕え、家康が今川家の人質時代にも従っていた。
1563年、三河一向一揆では一向宗徒の天野家は多くの者が一揆方につく中、康景は家康のもとを離れなかった。
戦後には高力清長(こうりき・きよなが)、本多重次(ほんだ・しげつぐ)とともに三河岡崎の奉行を命じられその人柄から三者は「仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛」とうたわれた。
1586年には甲賀忍者の統率を任され、1590年に家康が関東に移封となると江戸町奉行に任じられた。
1601年、駿河興国寺に1万石を与えられ大名に列した。
だが1607年、備蓄してあった竹木を盗む者がおり、家臣が成敗したところ、幕府の直轄領の領民であった。
家康の命を受け本多正純(ほんだ・まさずみ)が下手人の引き渡しを求めたものの「公儀の民を私兵が討ったのだから、どう義理立てしてもかばいきれない」という発言に康景は激怒し「正しきを曲げて間違ったことに従うのは心掛けに反する」と息子とともに出奔してしまった。
その後は相模小田原で出家し1613年に77歳で没した。
ともに出奔した子の天野康宗(やすむね)は1628年に帰参を許され、天野家は旗本として存続した。
一家臣をかばい、公平ならざる価値観に激怒し地位をなげうった康景は、真実どちへんなき人物であろう。
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池田輝政(いけだ・てるまさ)
尾張の人(1564~1613)
織田信長の乳兄弟・池田恒興(つねおき)の次男。輝政の名で著名だがこれは死の4年前に改名したもので、それまでは「照政」の字を使っていた。
幼い頃は活発だったが、長じると思慮深く寡黙な人物に育ち、父や兄・池田元助(もとすけ)と同様に武勇に優れ、若くして多くの戦功を挙げた。
1584年、小牧・長久手の戦いで父と兄が揃って戦死すると家督を継ぎ、豊臣家の重臣として主要な戦のほとんどに参戦した。
父らの戦死を聞いた時、輝政も斬り死にしようとしたが家臣の番藤右衛門(ばん・とうえもん)が必死に馬の口を抑え押し留めたといい、輝政はそれを終生恨みに思い、彼を褒めることも加増することもなく、輝政の死後にようやく加増されたという。
秀吉からの信頼は厚く、一門衆に準じる扱いを受け、1594年には秀吉の仲介により徳川家康の娘・督姫(とく)をめとった。
翌年に豊臣秀次(ひでつぐ)が失脚し、秀次に嫁ぐ直前だった最上義光(もがみ・よしあき)の娘すら死罪を命じられるなど妻妾のほとんどが厳罰に処される中、秀次の正室だった輝政の妹は特別に助命されている。
またこの頃、父を討ち取った徳川家の家臣・永井直勝(ながい・なおかつ)を召し出し、父の最期の様子を尋ねた。
輝政は直勝が5千石の小身と聞くと「あの父の首がたった5千石か」と不機嫌になり、家康に口を利いてやり1万石へ加増させたという。
1598年、秀吉が没すると加藤清正、福島正則らとともに石田三成と対立し、翌年に前田利家が没し抑えが無くなると三成の屋敷を襲撃し暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき先鋒として岐阜城を落とした。だが本戦では西軍に付きながらも裏で内応していた吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の抑えに回されたため戦闘に参加できなかった。
それでも岐阜城攻略を高く評価され戦後は播磨姫路52万石に加増された。先に受けていた三河15万石から3倍以上の大加増で、諸大名からは家康の娘婿だからと七光り扱いされた。
中でも福島正則は辛辣で「我々は槍で国を取ったが、お前はイチモツで国を取った」と皮肉ると、輝政は平然と「いかにもイチモツで国を取ったが、槍を使えば天下を取れたろう」と言い返したという。
ちなみに岐阜城攻めで輝政と正則は一番乗りを競ったが、実際には輝政が一番乗りを飾ったものの正則に功を譲った経緯があり、それなのに正則の皮肉はいささか大人げない。
輝政は姫路城を改修し城下町を大いに発展させ、息子らや弟もそれぞれ大名に列し、池田家はあわせて92万石の大身となり、1612年に正三位参議に叙されると参議の唐名にちなみ「姫路宰相」や「西国将軍」と呼ばれた。
だが1613年、輝政は50歳で急死した。同時期に豊臣家と縁深い加藤清正や浅野幸長(あさの・よしなが)も若くして没しており、しかもいずれも同じ病と記されることから、徳川家康による暗殺説が根強いものの、輝政の場合は家康と昵懇なことから「秀吉の呪い」ともささやかれた。
家督は嫡子の池田利隆(としたか)が継ぎ、池田家は徳川幕府の親藩に準じる扱いのまま、明治期まで続いた。
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柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)
大和の人(1571~1646)
徳川将軍家の兵法指南を務め、柳生新陰流の地位を確立させた剣豪大名。
父の柳生宗厳(むねよし)は剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の免許皆伝を受け新陰流を開いた剣豪だが、太閤検地で隠田を摘発され所領没収のうえ浪人となった。
そのため宗矩も仕官の口を求めて放浪し、大きな戦があれば参戦して軍功を求めた。
やがて1594年、父が黒田長政(くろだ・ながまさ)の仲介により徳川家康に招かれ無刀取り(真剣白刃取り)を披露すると、感心した家康は宗厳を剣術指南役に任じようとしたが、老齢のため断り代わりに宗矩を推挙し、ようやく主君を得た。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の命により故郷に戻り、大和の国人衆を指揮して西軍の後方撹乱を行い、さらに家康のもとに戻ると本戦にも参加した。
これにより父が失った旧領を回復し、さらに翌年には二代将軍・徳川秀忠の兵法指南役にも任じられた。
1615年、大坂夏の陣では秀忠の護衛を務め、混戦のさなか敵兵が秀忠にも迫ったが7人を瞬時に斬り伏せたという。なお剣豪で知られる宗矩だが実際に人を斬ったのはこの時だけである。
1616年、坂崎直盛(さかざき・なおもり)は豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に嫁いでいた家康の孫・千姫(せん)を大坂城から救出したものの、救出した者と結婚させるという約束を反故にされたのに激怒し反乱を起こしかけた。
直盛の友人だった宗矩はその説得に赴き反乱は未遂に終わらせたものの、直盛の自害と引き換えに家名は守るという約束もまた反故にされ、坂崎家は取り潰された。
責任を感じた宗矩は直盛の嫡子や家臣を引き取り、さらに坂崎家の家紋を副紋として使ったという。
1621年は三代将軍・徳川家光の兵法指南役となり、初代の大目付として諸大名や老中の監察も務めた。
地位は従五位下・但馬守に上り、ついに1万石を得て大名に列した。一介の剣客から大名にまで上り詰めたのは宗矩ただ一人である。
1646年、病に倒れると家光は自ら病床まで訪ね、没すると1万石の小身には異例の従四位下を追贈しその死を惜しんだという。
家督は「柳生十兵衛」として知られる嫡子の柳生三厳(みつよし)が継いだが、間もなく官を辞してしまったため次男の柳生宗冬(むねふゆ)が継いだ。
また末子には劇画「子連れ狼」のラスボスとして著名な柳生列堂(れつどう 作中では烈堂と書かれる)がいる。
兵法家としては心理的な駆け引きやメンタルトレーニング、心技体を鍛えることの重要さを説き、後世の武道や武士の心構えに多大な影響を与えた。
単なる武術、戦闘の手段でしか無かった兵法を武道の域にまで高めたのは宗矩であるといって過言ではなく、彼なくしては剣道、柔道などあらゆる武道は現代まで残っていなかったか、あるいは全く違った形で伝わっていたことだろう。
だが彼自身は兵法を離れれば人望は薄く、嫡子の三厳は徳川家光の勘気を蒙り一時追放の憂き目にあい、晩年まで親子仲も悪かった。分家の長とは天敵の間柄で、また大名から浪人まで身分を問わず多数の門下を抱え、また徳川家光の絶大な信頼を受け大目付として目を光らせていたためその権勢を恐れられ、諸大名からは敬して遠ざけられていた。
余談ながら大変なヘビースモーカーでもあったという。
※アイコンは陸遜
井伊直政(いい なおまさ)
遠江の人(1561~1602)
徳川十六神将・徳川四天王・徳川三傑のいずれにも数えられる名将。
直政が生まれた時、井伊家は前年の桶狭間の戦いで当主と主君の今川義元を失い、翌年には父が謀叛の嫌疑を掛けられ誅殺された。
跡を継ぐべき直政はまだ2歳だったため、父の従妹にあたる井伊直虎が女性ながら当主となり直政を養育した。
次期当主として命を狙われた直政は難を逃れるため出家させられたが、15歳の時に徳川家康に見出され、小姓に取り立てられた。
長じると直政は卓越した才能を表し、数々の武功を立て、家康の養女を妻に迎えた。
軍事のみならず政治・外交にも力を発揮し、1582年には北条家との交渉役を22歳にして任された。
さらに織田信長が本能寺の変で討たれた混乱に乗じ信濃・甲斐を奪うと、武田家の旧臣が多く抜擢され、その統率を命じられた。
直政はかつて武田家の精鋭で編成された「赤備え」を受け継ぎ、部隊の軍装を朱色で統一し、小牧・長久手の戦いでは小柄ながら鬼の角をあしらった兜をかぶり奮戦し「井伊の赤鬼」と恐れられた。
家康が豊臣秀吉に降伏すると、直政は秀吉にいたく気に入られ、官位と豊臣姓を賜った。
家康への懐柔策として人質に送られてきた秀吉の母・大政所(おおまんどころ)や侍女たちも、美男子で温厚な直政に惚れ込んだという。
1588年、聚楽第行幸では徳川家の並みいる重臣を差し置いて唯一、昇殿を許される侍従に任官された。
1590年、小田原征伐ではただ一人、城内まで攻め入ったと言われ、その後の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱では討伐軍の先鋒を務めた。
家康が関東に移封されると徳川家の家臣団で最高の上野箕輪12万石を得た。直政は箕輪城を廃すと高崎城を新たに改修し、今日の群馬県高崎市の発展の礎を築いた。
しかし直政は家中第一の大名となった後も家康の側近として軍事・政治・外交を全面的に支えていたため箕輪に帰ることは稀で、1598年に秀吉が没すると、豊臣家の旧臣を味方に引き入れる交渉を一手に引き受け、黒田官兵衛父子ら多くの大名を陣営に引き入れた。
1600年、関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに軍監になり、采配を任された。
だが直政は娘婿の松平忠吉(まつだいら・ただよし)とともに前線へ出ると、先陣を切って西軍へ襲いかかった。
先鋒の福島正則に制止されるも偵察と偽り、小勢で仕掛けた抜け駆けとされるが、戦後に正則から抗議がなく、また重大な軍法違反を軍監の直政自ら破ったのも考えづらく、霧の中での遭遇戦とする説も有力視されている。
直政は島津義弘軍と戦い、大勢が決し島津軍が撤退にかかると追撃し義弘の甥・島津豊久も討ち取ったが、銃撃を右肩に浴び落馬したため義弘を取り逃がした。猛追していたため家臣がついていけず単騎で追っていたという。
直政は重傷を負いながらも戦後処理に奔走し、特に西軍の総大将を務めた毛利輝元(もうり・てるもと)には直政の尽力もあって改易を免れたのを感謝され、今後の指南役も請われたという。
また西軍に与した長宗我部家の取りなしや、島津家との和睦交渉、西軍につき上田城で徳川秀忠の別働隊を足止めし本戦に合流させなかった真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子の助命嘆願も手掛けた。島津義弘には負傷させられたが、その奮戦ぶりに感心しむしろ擁護に努めたとされる。
これらの功績から西軍を率いた石田三成の旧領である近江佐和山18万石に加増転封された。
だが1602年、関ヶ原で負った銃創からか破傷風を発症し42歳の若さで没した。
家康は嘆き悲しみ、石田三成の呪いだという噂が立つと、佐和山に残る三成の遺物を全て破却させたという。
また娘婿の松平忠吉も関ヶ原で負った傷がもとでか、1607年に28歳で没している。
家督ははじめ長男が継いだが「赤備え」を率いられるほどの軍才に恵まれなかったため、家康は長男を病弱と称して他藩を継がせ、直政に性格・才能ともによく似た次男の井伊直孝(なおたか)に家督を継がせた。
直孝は父にも劣らぬ名将ぶりを見せ、佐和山を廃し新たに近江彦根藩30万石が立てられると、井伊家は東西をつなぐ扇の要、危急の際に京の朝廷へ駆けつける尖兵として幕末まで彦根を任された。
~赤鬼の実像~
年若く新参の外様でありながら、家康からは自宅の庭近くに直政の居宅を建てられるほど絶大な信頼を受け、諸大名との交渉窓口ともなった人当たりの良さで知られるが、公務を離れた実像は「赤鬼」の異名にふさわしい峻烈さが垣間見える逸話が多い。
大政所が秀吉のもとへ返される時、大政所たっての願いで直政が護衛を務めた。
秀吉は自ら茶を点て、直政をもてなそうとしたが、前年に徳川家から豊臣家に寝返った石川数正(いしかわ・かずまさ)がいるのを見るや「先祖より仕えた主君に背き、殿下に仕える臆病者とは同席できない」と言い放った。
まだ小身の頃、家康に名馬をねだり希望が叶えられると、本多重次(ほんだ・しげつぐ)は「直政のような小せがれに名馬をくれてやるとは殿も目が暗くなったものだ」と直政に聞こえるように毒舌を吐いた。
後に直政が家中で第一の大禄を得た時、重次には3千石しか与えられなかった。
直政は重次と顔を合わせるや「あの時は小せがれやなんやと馬鹿にされましたが、名馬に違わぬ働きをしてこのような大身になれました。目が暗かったのは本多殿の方でしたな」と皮肉を浴びせた。
なお重次もまた「鬼作左」と呼ばれた猛将である。
寡黙で自分はもちろん家臣にも厳しく、従わない者は即座に処断したため「人斬り」の異名さえ取った。
筆頭家老ですら直政を恐れて家康の旗本に配属替えを願い出たほどで、戦国最強をうたわれた「赤備え」の強さの秘訣は規律の厳しさにもあった。
また自ら先頭に立って戦うことを好んだため、部隊の指揮はもっぱら家臣にとらせており、負傷が絶えなかった。
毛利家の家老・小早川隆景をはじめ多くの識者は直政を「その気になれば天下を獲れる器」と評していたという。
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井伊直虎(いい・なおとら)
遠江の人(??~1582)
戦国時代には稀な女性城主。徳川四天王に数えられる井伊直政(なおまさ)の養母で、はとこにあたる。
父の井伊直盛(なおもり)は男子に恵まれなかったため、娘を井伊家の惣領名を組み合わせた次郎法師(じろうほうし)と名付けた。
直盛の従弟に当たる井伊直親(なおちか)を婿養子に迎え家督を継がせる予定だったが、讒言により直親の父が自害に追い込まれ、直親も信濃へ亡命してしまった。
11年後、直親は帰参したがすでに信濃で正室を迎えており、次郎法師との結婚は反故にされた。
1560年、桶狭間の戦いで直盛が戦死し、主家の今川家も当主の今川義元を失い衰退した。
井伊家は直親が継ぐも、1562年に小野道好(おの・みちよし)の讒言によって処刑されてしまい、一族も危機を迎えたが伯父(直虎の母の兄)新野親矩(にいの・ちかのり)が擁護したため事なきを得た。
だが1563年、一族をまとめていた曽祖父が急死(毒殺とも言われる)、翌年には新野親矩と主だった重臣まで戦死し、やむなく直親の遺児でわずか2歳の直政は出家させられ、残された次郎法師が1565年、直虎と男性名に改名し家督を継いだ。
1568年、ついには小野道好に居城を追い出されるも、国人衆が徳川家康の後ろ盾を得て反抗し、小野道好を直親讒言の罪で処刑に追い込むとともに井伊家の実権を奪い返した。
なおも苦難は続き1572年に武田軍に城を奪われ、徳川家も連敗し窮地に陥ったが1573年、武田信玄が急死すると武田軍は撤退し、直虎は三度、居城を取り戻した。
直虎に養子として育てられた直政は、15歳で家康に見込まれて小姓に取り立てられた。
長じるにつれ文武両道に才を示した直政は1582年、直虎が亡くなると跡を継ぎ、やがて徳川四天王に数えられるほどに頭角を現した。
直虎は生涯未婚だったが、没後は許嫁の直親の隣に葬られたという。
板倉勝重(いたくら・かつしげ)
三河の人(1545~1624)
徳川家に仕え「名奉行」とうたわれた。
幼少期に出家していたが、1561年に父が、さらに1581年に家督を継いだ弟が戦死したため、徳川家康の命で37歳にして還俗し板倉家を継いだ。
僧侶として前半生を過ごしていながら内政手腕に優れ、家康が駿府に拠点を移すと駿府町奉行に、関東に移封されると関東代官・江戸町奉行として辣腕を振るった。
1601年、関ヶ原の戦いを制した家康は勝重を京都所司代に任じた。京の維持と朝廷との交渉、大坂城に居を構える豊臣家への監視を担い、またこの頃に家康の孫・徳川家光の乳母を公募したとの説があり、それに応じた春日局が後に大奥を牛耳ったのは周知の通りである。
1603年、家康が征夷大将軍に就き江戸幕府が開かれると、勝重は伊賀守に任じられた。このため板倉伊賀守の名で多くの記録や創作に登場する。
1609年には1万石を超えて大名に列し、大坂の陣に先立つ「方広寺鐘銘事件」では本多正純(ほんだ・まさずみ)とともにこれを好機と豊臣家の撲滅を図った。
豊臣家の滅亡後は「禁中並公家諸法度」の制定に関わり、朝廷への指導と監視を一手に任された。
1624年、79歳で没した。嫡子の板倉重宗(しげむね)が京都所司代を継ぎ、父にも劣らぬ手腕を見せ、父子そろって名奉行とうたわれた。
勝重・重宗の公平かつ明快な裁きは敗訴した者も納得させたといわれ、庶民にも広く慕われ後に父子の裁定や逸話をまとめた「板倉政要」が編まれた。
あまりに父子の声望が高かったため、事実だけではなく創作や海外の判例・逸話も「板倉父子の裁き」として描かれており、さらに時代が下ってかの名奉行・大岡越前の逸話として流用されたものも数多くある。その中で最も著名なのはあの「三方一両損」である。
奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)
三河の人(1555~1615)
はじめは奥平貞昌(さだまさ)と名乗った。
もともと奥平家は今川家に仕えていたが、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したのを機に徳川家に鞍替えした。
しかし1570年頃、武田家の侵攻を受けてやむなく降った。徳川家康は武田家の勢力を削るため奥平家を引き抜きたいと考え、織田信長に方策を相談した。
信長は家康の長女・亀姫(かめ)を奥平家の嫡子・貞昌に嫁がせるよう命じ、それを受け奥平家は徳川家に帰参した。
1575年、武田勝頼(たけだ・かつより)は1万5千の大軍で貞昌の守る長篠城を包囲した。
貞昌はわずか5百の手勢でよく防ぎ、家臣の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を家康のもとへ送り援軍を要請。駆けつけた織田・徳川連合軍は武田軍を大破した。
信長は貞昌の働きを激賞し、自身の名から一字を与え「信昌」と名乗らせた。織田家以外で一字拝領した者は他にもいるが、友好の証として贈られた儀礼的なものばかりで、戦功を称えられ拝領したのは信昌だけである。
家康も労をねぎらい、名刀を与えた他、籠城戦に貢献した奥平家の重臣12名に子々孫々まで待遇を保証するなどしたという。
また創作はおろか歴史系サイトや出版物などでも、長篠の戦いの活躍で亀姫の婿になったと書かれることがあるが、先に記したように嫁入りは戦前のことである。
その後も信昌は徳川家の重臣として活躍した。
1585年、徳川家の宿老・石川数正(いしかわ・かずまさ)が出奔すると、家康は軍事機密の漏洩を恐れ、軍制を武田信玄流に改めたが、その際に武田家の旧臣だった信昌は大いに貢献したという。
主要な戦のほとんどに参加し、1600年の関ヶ原の戦いでは潜伏していた安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を捕らえ、また京都所司代として統治に当たった。
美濃10万石の他、長男にも下野10万石を与えられ、末子の松平忠明(まつだいら・ただあき)は家康の養子となり、一門衆の扱いを受け、奥平家は明治期まで続いた。
松平忠明は二代将軍・徳川秀忠に、変事が起こった時には後を託すとまで言われたほど信頼され、また一級史料の「当代記」を遺している。
石川数正(いしかわ・かずまさ)
三河の人(1533~1593)
徳川家の重臣。徳川家康が今川家の人質だった頃から側近として仕え、長じると軍事・政治・外交全てで重きを置かれた。
1560年、今川義元が戦死し家康が独立すると、今川家と交渉し人質になっていた家康の嫡子・信康(のぶやす)と、今川家から迎えていた正室を取り戻した。
1562年には織田信長との同盟を取り付け、1563年、三河一向一揆では父や多くの家臣が一揆方につく中、数正は改宗してまで家康のもとに残った。
石川家の家督は家康の従兄にあたる、叔父の石川家成(いえなり)が継いだものの、数正は家成、酒井忠次(さかい・ただつぐ)と並ぶ筆頭家老となり、信康が元服すると後見役にもついた。
姉川、三方ヶ原、長篠と主要な戦の全てに参戦し、信康が切腹するとその領地を継いだ。
1582年、織田信長が没し羽柴秀吉が台頭すると、数正は秀吉との交渉を任された。
だが1585年、突如として徳川家を出奔し秀吉のもとへ鞍替えした。その理由は今もって不明で「後見人を務めた信康に切腹を命じた家康との不和」「反秀吉派による讒言で立場を失った」「石川家の嫡流を継いだ家成への嫉妬」「秀吉の内から徳川家を援護するため」「単純に秀吉に魅了された」など諸説あり、創作では作家の腕の見せどころである。
いずれにしろ数正の離脱は徳川家に大きな影響を与えた。軍制を知り尽くした数正に備え、家康は武田家の軍制に改めるとともに、武田の旧臣を次々と要職に据えたという。
数正は秀吉から河内8万石、後に信濃10万石を与えられ、現在も残る松本城を築城(改修)した。
数正が没すると嫡子の石川康長(やすなが)が後を継ぎ、関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍につき家名を保った。
しかし1613年、大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)事件に連座し改易となり、数正の家系は途絶えた。
なお石川家は家成の嫡流が明治まで大名として存続している。
加藤嘉明(かとう・よしあき)
三河の人(1563~1631)
嘉明は晩年の名で、繁勝(しげかつ)の名を長く用いたがあまり知られていない。
加藤家はもともと徳川家康に仕えていたが、嘉明の生年に起こった三河一向一揆で父は一揆方につき、流浪の末に羽柴秀吉に仕えた。
嘉明は福島正則、加藤清正らとともに秀吉の小姓として育ち、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍し三人とも「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
その後は主に水軍を率いて数々の戦に参加し、1586年に淡路1万5千石を得たのを皮切りに、1592年には文禄の役で李舜臣(り・しゅんしん)の朝鮮水軍と戦った功績で伊予6万石に、慶長の役では元均(げんきん)率いる朝鮮水軍を壊滅させ、兵糧攻めに苦しむ加藤清正を救援するなどの軍功で10万石に上った。
1598年、秀吉が没すると石田三成への反目から徳川家康に通じるようになり、翌年には加藤清正らの三成襲撃事件にも関与した。
1600年の関ヶ原の戦いでも東軍に加わり、前哨戦の岐阜・大垣城攻めから盛んに戦い、本戦でも三成の主力と激突した。
岐阜城攻めでは急戦を主張する井伊直政(いい・なおまさ)と慎重論の嘉明の意見がぶつかり、あわや斬り合いをしそうになるも、仔細に情報を分析すると嘉明は潔く直政の意見に同調し、一気に城を陥落させたため「沈勇の士」と讃えられた。
また領国の伊予でも家老の佃十成(つくだ・かずなり)が奇策で毛利軍を撃破し、加藤家は戦後、20万石に加増された。
1614年、大坂冬の陣では豊臣恩顧の大名であることから警戒され江戸城の留守居役とされたが、翌年の大坂夏の陣には徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の麾下で参戦した。
1619年、福島正則が改易となると広島城を接収。1627年に会津の蒲生家が伊予へ転封になると、入れ替わりに嘉明が会津40万石に加増のうえ転封となった。
1631年、69歳で死去。家督は嫡男の加藤明成(かとう・あきなり)が継いだが、父と正反対に暗愚の明成は家老の堀主水(ほり・もんど)と醜い私闘を演じたため幕府の逆鱗に触れ、隠居の上2万石に減封された。
全くの余談だが「武将風雲録」では髭面のおっさんなのに8歳で登場するためインパクト抜群である。
~冷静沈着~
岐阜城攻め以外にも冷静さを感じさせる逸話が数多く伝わっている。
ある時、小姓が囲炉裏で火箸を焼いて遊んでいると、不意に嘉明が現れたためあわてて火箸を灰の中へ落とした。
嘉明はそうとも知らず何気なく火箸をつかみ大火傷を負ったが、顔色ひとつ変えずに火箸を元に戻したという。
またある時、近習が嘉明秘蔵の10枚一組の小皿のうち1枚を誤って割ってしまった。
それを聞くと嘉明は叱りつけもせず、残りの9枚も自ら打ち砕き「1枚欠けたままでは誰が粗相したといつまでも名前が残ってしまう。家人は我が四肢と同じであり、どんな名物だろうと引き換えにはできない。着物や庭園、鷹など趣味を持つ者はそのためにかえって家人を失いがちだと心得るべきだ」と述べたという。
嘉明はつねづね「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と言っており、武勇の優劣よりも団結や規律を重んじた。
そのため豪傑肌の人物は「勝っている時は調子がいいが、危機には平気で仲間を見捨てる」と評価せず、事実、関ヶ原の戦いで家臣の塙団右衛門(ばん・だんえもん)は抜け駆けで大功を立てたが、率いていた鉄砲隊を置き去りにしたため嘉明は激怒し、団右衛門は加藤家を去り、嘉明も奉公構(他家に仕えられないようにする処罰。死罪に次ぐ罰である)を出すに及んだという。