三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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井伊直政(いい なおまさ)
遠江の人(1561~1602)
徳川十六神将・徳川四天王・徳川三傑のいずれにも数えられる名将。
直政が生まれた時、井伊家は前年の桶狭間の戦いで当主と主君の今川義元を失い、翌年には父が謀叛の嫌疑を掛けられ誅殺された。
跡を継ぐべき直政はまだ2歳だったため、父の従妹にあたる井伊直虎が女性ながら当主となり直政を養育した。
次期当主として命を狙われた直政は難を逃れるため出家させられたが、15歳の時に徳川家康に見出され、小姓に取り立てられた。
長じると直政は卓越した才能を表し、数々の武功を立て、家康の養女を妻に迎えた。
軍事のみならず政治・外交にも力を発揮し、1582年には北条家との交渉役を22歳にして任された。
さらに織田信長が本能寺の変で討たれた混乱に乗じ信濃・甲斐を奪うと、武田家の旧臣が多く抜擢され、その統率を命じられた。
直政はかつて武田家の精鋭で編成された「赤備え」を受け継ぎ、部隊の軍装を朱色で統一し、小牧・長久手の戦いでは小柄ながら鬼の角をあしらった兜をかぶり奮戦し「井伊の赤鬼」と恐れられた。
家康が豊臣秀吉に降伏すると、直政は秀吉にいたく気に入られ、官位と豊臣姓を賜った。
家康への懐柔策として人質に送られてきた秀吉の母・大政所(おおまんどころ)や侍女たちも、美男子で温厚な直政に惚れ込んだという。
1588年、聚楽第行幸では徳川家の並みいる重臣を差し置いて唯一、昇殿を許される侍従に任官された。
1590年、小田原征伐ではただ一人、城内まで攻め入ったと言われ、その後の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱では討伐軍の先鋒を務めた。
家康が関東に移封されると徳川家の家臣団で最高の上野箕輪12万石を得た。直政は箕輪城を廃すと高崎城を新たに改修し、今日の群馬県高崎市の発展の礎を築いた。
しかし直政は家中第一の大名となった後も家康の側近として軍事・政治・外交を全面的に支えていたため箕輪に帰ることは稀で、1598年に秀吉が没すると、豊臣家の旧臣を味方に引き入れる交渉を一手に引き受け、黒田官兵衛父子ら多くの大名を陣営に引き入れた。
1600年、関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに軍監になり、采配を任された。
だが直政は娘婿の松平忠吉(まつだいら・ただよし)とともに前線へ出ると、先陣を切って西軍へ襲いかかった。
先鋒の福島正則に制止されるも偵察と偽り、小勢で仕掛けた抜け駆けとされるが、戦後に正則から抗議がなく、また重大な軍法違反を軍監の直政自ら破ったのも考えづらく、霧の中での遭遇戦とする説も有力視されている。
直政は島津義弘軍と戦い、大勢が決し島津軍が撤退にかかると追撃し義弘の甥・島津豊久も討ち取ったが、銃撃を右肩に浴び落馬したため義弘を取り逃がした。猛追していたため家臣がついていけず単騎で追っていたという。
直政は重傷を負いながらも戦後処理に奔走し、特に西軍の総大将を務めた毛利輝元(もうり・てるもと)には直政の尽力もあって改易を免れたのを感謝され、今後の指南役も請われたという。
また西軍に与した長宗我部家の取りなしや、島津家との和睦交渉、西軍につき上田城で徳川秀忠の別働隊を足止めし本戦に合流させなかった真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子の助命嘆願も手掛けた。島津義弘には負傷させられたが、その奮戦ぶりに感心しむしろ擁護に努めたとされる。
これらの功績から西軍を率いた石田三成の旧領である近江佐和山18万石に加増転封された。
だが1602年、関ヶ原で負った銃創からか破傷風を発症し42歳の若さで没した。
家康は嘆き悲しみ、石田三成の呪いだという噂が立つと、佐和山に残る三成の遺物を全て破却させたという。
また娘婿の松平忠吉も関ヶ原で負った傷がもとでか、1607年に28歳で没している。
家督ははじめ長男が継いだが「赤備え」を率いられるほどの軍才に恵まれなかったため、家康は長男を病弱と称して他藩を継がせ、直政に性格・才能ともによく似た次男の井伊直孝(なおたか)に家督を継がせた。
直孝は父にも劣らぬ名将ぶりを見せ、佐和山を廃し新たに近江彦根藩30万石が立てられると、井伊家は東西をつなぐ扇の要、危急の際に京の朝廷へ駆けつける尖兵として幕末まで彦根を任された。
~赤鬼の実像~
年若く新参の外様でありながら、家康からは自宅の庭近くに直政の居宅を建てられるほど絶大な信頼を受け、諸大名との交渉窓口ともなった人当たりの良さで知られるが、公務を離れた実像は「赤鬼」の異名にふさわしい峻烈さが垣間見える逸話が多い。
大政所が秀吉のもとへ返される時、大政所たっての願いで直政が護衛を務めた。
秀吉は自ら茶を点て、直政をもてなそうとしたが、前年に徳川家から豊臣家に寝返った石川数正(いしかわ・かずまさ)がいるのを見るや「先祖より仕えた主君に背き、殿下に仕える臆病者とは同席できない」と言い放った。
まだ小身の頃、家康に名馬をねだり希望が叶えられると、本多重次(ほんだ・しげつぐ)は「直政のような小せがれに名馬をくれてやるとは殿も目が暗くなったものだ」と直政に聞こえるように毒舌を吐いた。
後に直政が家中で第一の大禄を得た時、重次には3千石しか与えられなかった。
直政は重次と顔を合わせるや「あの時は小せがれやなんやと馬鹿にされましたが、名馬に違わぬ働きをしてこのような大身になれました。目が暗かったのは本多殿の方でしたな」と皮肉を浴びせた。
なお重次もまた「鬼作左」と呼ばれた猛将である。
寡黙で自分はもちろん家臣にも厳しく、従わない者は即座に処断したため「人斬り」の異名さえ取った。
筆頭家老ですら直政を恐れて家康の旗本に配属替えを願い出たほどで、戦国最強をうたわれた「赤備え」の強さの秘訣は規律の厳しさにもあった。
また自ら先頭に立って戦うことを好んだため、部隊の指揮はもっぱら家臣にとらせており、負傷が絶えなかった。
毛利家の家老・小早川隆景をはじめ多くの識者は直政を「その気になれば天下を獲れる器」と評していたという。