三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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井伊直虎(いい・なおとら)
遠江の人(??~1582)
戦国時代には稀な女性城主。徳川四天王に数えられる井伊直政(なおまさ)の養母で、はとこにあたる。
父の井伊直盛(なおもり)は男子に恵まれなかったため、娘を井伊家の惣領名を組み合わせた次郎法師(じろうほうし)と名付けた。
直盛の従弟に当たる井伊直親(なおちか)を婿養子に迎え家督を継がせる予定だったが、讒言により直親の父が自害に追い込まれ、直親も信濃へ亡命してしまった。
11年後、直親は帰参したがすでに信濃で正室を迎えており、次郎法師との結婚は反故にされた。
1560年、桶狭間の戦いで直盛が戦死し、主家の今川家も当主の今川義元を失い衰退した。
井伊家は直親が継ぐも、1562年に小野道好(おの・みちよし)の讒言によって処刑されてしまい、一族も危機を迎えたが伯父(直虎の母の兄)新野親矩(にいの・ちかのり)が擁護したため事なきを得た。
だが1563年、一族をまとめていた曽祖父が急死(毒殺とも言われる)、翌年には新野親矩と主だった重臣まで戦死し、やむなく直親の遺児でわずか2歳の直政は出家させられ、残された次郎法師が1565年、直虎と男性名に改名し家督を継いだ。
1568年、ついには小野道好に居城を追い出されるも、国人衆が徳川家康の後ろ盾を得て反抗し、小野道好を直親讒言の罪で処刑に追い込むとともに井伊家の実権を奪い返した。
なおも苦難は続き1572年に武田軍に城を奪われ、徳川家も連敗し窮地に陥ったが1573年、武田信玄が急死すると武田軍は撤退し、直虎は三度、居城を取り戻した。
直虎に養子として育てられた直政は、15歳で家康に見込まれて小姓に取り立てられた。
長じるにつれ文武両道に才を示した直政は1582年、直虎が亡くなると跡を継ぎ、やがて徳川四天王に数えられるほどに頭角を現した。
直虎は生涯未婚だったが、没後は許嫁の直親の隣に葬られたという。