三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
※アイコンは温恢
安藤直次(あんどう・なおつぐ)
三河の人(1555~1635)
幼少期から徳川家康に仕える。
1570年、姉川の戦いで初陣を踏み、以降の徳川家の重要な戦のほとんどに参戦した。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の使い番として奔走し、その後は本多正純(ほんだ・まさずみ)、成瀬正成(なるせ・まさなり)らとともに幕政を取り仕切った。
しかし直次の禄は同世代の家臣と比べて少なく、長らく5千石のままだった。
成瀬正成が家康に「直次だけが加増されていないが彼は一言も不満を言いません」と告げると、家康はただちに5千石を加増して大名に列し、さらに十年分の禄として5万石の米を与えたという。
1610年には家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)の傅役となり、1614年からの大坂の陣では13歳と幼い頼宣を補佐し采配を振るった。
1615年、大坂夏の陣では嫡子の安藤重能(しげよし)が戦死し、家臣が遺体を収容しようとするとそれを押しとどめ「犬にでも食わせろ」と見向きもせずに指揮を執り続け、戦後に嘆き悲しんだという。
ともに幕政を回してきた本多正純の人となりを観察し、直次は「いずれ改易されるだろう」と言った。
家康の死後、正純はすぐに2万石を加増されたが直次は「この後を見よ」と言い、さらに10万石を加増された時も「いよいよ滅びに近づいた」と言い、その理由を「かつて上様(徳川秀忠)が真田昌幸(さなだ・まさゆき)に敗れ関ヶ原の戦いに遅参した折、正純は父の本多正信(まさのぶ)に責任があるとして切腹させるべきだと家康公に申し出た。息子が父親を切腹させようとするなど天罰が下って当然である」と述べた。
間もなく正純は失脚し改易となり、直次の目の正しさが証明された。
1619年、頼宣が紀伊和歌山に移ると、直次も附家老として従い紀伊田辺に3万8千石を与えられた。
頼宣は長じると「自分が大名としていられるのは直次のおかげだ」と述懐した。
1635年、81歳で没した。
跡を継いだ次男も1年後に没したがその息子が跡を継ぎ、彼も亡くなると男子が無かったため、大坂の陣で戦死した重能の孫が家督を継いだ。