三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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天野康景(あまの・やすかげ)
三河の人(1537~1613)
幼い頃から徳川家康の小姓として仕え、家康が今川家の人質時代にも従っていた。
1563年、三河一向一揆では一向宗徒の天野家は多くの者が一揆方につく中、康景は家康のもとを離れなかった。
戦後には高力清長(こうりき・きよなが)、本多重次(ほんだ・しげつぐ)とともに三河岡崎の奉行を命じられその人柄から三者は「仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛」とうたわれた。
1586年には甲賀忍者の統率を任され、1590年に家康が関東に移封となると江戸町奉行に任じられた。
1601年、駿河興国寺に1万石を与えられ大名に列した。
だが1607年、備蓄してあった竹木を盗む者がおり、家臣が成敗したところ、幕府の直轄領の領民であった。
家康の命を受け本多正純(ほんだ・まさずみ)が下手人の引き渡しを求めたものの「公儀の民を私兵が討ったのだから、どう義理立てしてもかばいきれない」という発言に康景は激怒し「正しきを曲げて間違ったことに従うのは心掛けに反する」と息子とともに出奔してしまった。
その後は相模小田原で出家し1613年に77歳で没した。
ともに出奔した子の天野康宗(やすむね)は1628年に帰参を許され、天野家は旗本として存続した。
一家臣をかばい、公平ならざる価値観に激怒し地位をなげうった康景は、真実どちへんなき人物であろう。