三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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淀殿(よどどの)
近江の人(1569?~1615)
豊臣秀吉の側室で、秀吉の死後は実質的に豊臣家を支配した。
浅井長政とお市の間に生まれた長女で本名は浅井茶々(ちゃちゃ)。妹の初(はつ)、江(ごう)と三姉妹揃って著名。
1573年、浅井家が伯父の織田信長によって滅ぼされ、父、祖父と兄を処刑された。
母お市と三姉妹は伯父の織田信包(のぶかね)に預けられたが1582年、本能寺の変で信長が討たれると、母は織田家の重臣・柴田勝家に再嫁し三姉妹は越前北ノ庄に移った。
しかし翌1583年、勝家は秀吉に賤ヶ岳の戦いで敗れ、お市とともに自害し、三姉妹は秀吉に保護された。
その後は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)や、信長の弟・織田有楽斎(うらくさい)、信長の妹・お犬(いぬ)の方や従姉の京極竜子(きょうごく・たつこ)らに庇護されたと伝わる。
かつて秀吉が懸想したという母お市は戦国一の美女とうたわれたが、茶々も母に生き写しと言われ、1588年に秀吉の側室となった。
翌年には無数の側室を抱えながら子宝に恵まれなかった秀吉にとって初の実子となる鶴松(つるまつ)を産み、喜んだ秀吉は茶々に山城の淀城を与えたため、淀殿と呼ばれるようになった。
鶴松は3歳で夭折したが1593年に次男の豊臣秀頼(ひでより)も産まれ、1598年に秀吉が没すると淀殿は幼い秀頼を後見し実質的に豊臣家の実権を握った。
1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵の噂を聞きつけると、徳川家康に対し謀叛を事前に防ぐよう依頼した。
三成は毛利輝元(もうり・てるもと)を西軍の総大将として豊臣家の居城・大坂城に入れ、秀頼の出陣やお墨付きを求めたが、淀殿は頑として首を縦に振らず、豊臣家の立場を中立に近いものとした。
家康は淀殿からの依頼状を三成らの謀叛の証拠として用い、「豊臣家のために謀叛人を討つ」ことを大義名分とした。
また重臣で淀殿の乳兄弟であり、秀頼の実父の噂すらささやかれる大野治長(おおの・はるなが)は、家康の暗殺を企んだ嫌疑を掛けられ流罪となっていたが、淀殿の要請を受けてか東軍に参戦し手柄を立て、罪を赦されると家康によって、豊臣家に敵意のないことを伝える使者として大坂城に送り込まれた。
淀殿は家康を大坂城に招くと歓待し、自ら酒盃を与えるとそれをすぐさま秀頼に与えるよう求め、家康が秀頼の父代わりであると宣言したという。
だが家康は豊臣家に処罰こそしなかったが、全国の豊臣家の直轄領を東軍で戦功のあった大名に全て与えてしまい、豊臣家を実質的に一大名に転落させた。
一方で淀殿は毛利輝元ら五大老、石田三成ら五奉行の去った豊臣家をますます牛耳るようになった。
豊臣家と徳川家は水面下で対立していき1614年、ついに大坂冬の陣を招いた。
全国に号令を掛けたもののもはや豊臣家に従う大名はなく、改易された元大名や主君を失った浪人だけが応じ、その中で主力を担った真田幸村は秀頼の出陣を請うたものの、淀殿はそれを断った。
また豊臣軍の奮戦に手を焼いた家康は、兵を下げると大砲で昼夜を問わず城を狙い撃ち心理的な圧迫を掛けたが、そのうちの一発が淀殿居室を直撃して侍女を殺したため、震え上がった淀殿が講和を求めたともされる。
翌1615年、再度の侵攻を招くと真田幸村ら浪人の猛攻で、家康を窮地に追い込んだものの衆寡敵せず、燃え落ちる天守閣から逃れ秀頼や大野治長らとともに自害した。
大坂の陣を前に戦の趨勢を聞かれた細川忠興(ほそかわ・ただおき)は「秀頼は乳飲み子でお袋(淀殿)が専制を敷いている」と答え、即座に家康の勝利と断じた。
すでに成人していた秀頼が乳飲み子さながらに扱われているとの表現は、豊臣恩顧の大名としてつぶさに内情を見てきた忠興の言葉として説得力がある。