三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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加藤嘉明(かとう・よしあき)
三河の人(1563~1631)
嘉明は晩年の名で、繁勝(しげかつ)の名を長く用いたがあまり知られていない。
加藤家はもともと徳川家康に仕えていたが、嘉明の生年に起こった三河一向一揆で父は一揆方につき、流浪の末に羽柴秀吉に仕えた。
嘉明は福島正則、加藤清正らとともに秀吉の小姓として育ち、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍し三人とも「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
その後は主に水軍を率いて数々の戦に参加し、1586年に淡路1万5千石を得たのを皮切りに、1592年には文禄の役で李舜臣(り・しゅんしん)の朝鮮水軍と戦った功績で伊予6万石に、慶長の役では元均(げんきん)率いる朝鮮水軍を壊滅させ、兵糧攻めに苦しむ加藤清正を救援するなどの軍功で10万石に上った。
1598年、秀吉が没すると石田三成への反目から徳川家康に通じるようになり、翌年には加藤清正らの三成襲撃事件にも関与した。
1600年の関ヶ原の戦いでも東軍に加わり、前哨戦の岐阜・大垣城攻めから盛んに戦い、本戦でも三成の主力と激突した。
岐阜城攻めでは急戦を主張する井伊直政(いい・なおまさ)と慎重論の嘉明の意見がぶつかり、あわや斬り合いをしそうになるも、仔細に情報を分析すると嘉明は潔く直政の意見に同調し、一気に城を陥落させたため「沈勇の士」と讃えられた。
また領国の伊予でも家老の佃十成(つくだ・かずなり)が奇策で毛利軍を撃破し、加藤家は戦後、20万石に加増された。
1614年、大坂冬の陣では豊臣恩顧の大名であることから警戒され江戸城の留守居役とされたが、翌年の大坂夏の陣には徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の麾下で参戦した。
1619年、福島正則が改易となると広島城を接収。1627年に会津の蒲生家が伊予へ転封になると、入れ替わりに嘉明が会津40万石に加増のうえ転封となった。
1631年、69歳で死去。家督は嫡男の加藤明成(かとう・あきなり)が継いだが、父と正反対に暗愚の明成は家老の堀主水(ほり・もんど)と醜い私闘を演じたため幕府の逆鱗に触れ、隠居の上2万石に減封された。
全くの余談だが「武将風雲録」では髭面のおっさんなのに8歳で登場するためインパクト抜群である。
~冷静沈着~
岐阜城攻め以外にも冷静さを感じさせる逸話が数多く伝わっている。
ある時、小姓が囲炉裏で火箸を焼いて遊んでいると、不意に嘉明が現れたためあわてて火箸を灰の中へ落とした。
嘉明はそうとも知らず何気なく火箸をつかみ大火傷を負ったが、顔色ひとつ変えずに火箸を元に戻したという。
またある時、近習が嘉明秘蔵の10枚一組の小皿のうち1枚を誤って割ってしまった。
それを聞くと嘉明は叱りつけもせず、残りの9枚も自ら打ち砕き「1枚欠けたままでは誰が粗相したといつまでも名前が残ってしまう。家人は我が四肢と同じであり、どんな名物だろうと引き換えにはできない。着物や庭園、鷹など趣味を持つ者はそのためにかえって家人を失いがちだと心得るべきだ」と述べたという。
嘉明はつねづね「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と言っており、武勇の優劣よりも団結や規律を重んじた。
そのため豪傑肌の人物は「勝っている時は調子がいいが、危機には平気で仲間を見捨てる」と評価せず、事実、関ヶ原の戦いで家臣の塙団右衛門(ばん・だんえもん)は抜け駆けで大功を立てたが、率いていた鉄砲隊を置き去りにしたため嘉明は激怒し、団右衛門は加藤家を去り、嘉明も奉公構(他家に仕えられないようにする処罰。死罪に次ぐ罰である)を出すに及んだという。