三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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板倉勝重(いたくら・かつしげ)
三河の人(1545~1624)
徳川家に仕え「名奉行」とうたわれた。
幼少期に出家していたが、1561年に父が、さらに1581年に家督を継いだ弟が戦死したため、徳川家康の命で37歳にして還俗し板倉家を継いだ。
僧侶として前半生を過ごしていながら内政手腕に優れ、家康が駿府に拠点を移すと駿府町奉行に、関東に移封されると関東代官・江戸町奉行として辣腕を振るった。
1601年、関ヶ原の戦いを制した家康は勝重を京都所司代に任じた。京の維持と朝廷との交渉、大坂城に居を構える豊臣家への監視を担い、またこの頃に家康の孫・徳川家光の乳母を公募したとの説があり、それに応じた春日局が後に大奥を牛耳ったのは周知の通りである。
1603年、家康が征夷大将軍に就き江戸幕府が開かれると、勝重は伊賀守に任じられた。このため板倉伊賀守の名で多くの記録や創作に登場する。
1609年には1万石を超えて大名に列し、大坂の陣に先立つ「方広寺鐘銘事件」では本多正純(ほんだ・まさずみ)とともにこれを好機と豊臣家の撲滅を図った。
豊臣家の滅亡後は「禁中並公家諸法度」の制定に関わり、朝廷への指導と監視を一手に任された。
1624年、79歳で没した。嫡子の板倉重宗(しげむね)が京都所司代を継ぎ、父にも劣らぬ手腕を見せ、父子そろって名奉行とうたわれた。
勝重・重宗の公平かつ明快な裁きは敗訴した者も納得させたといわれ、庶民にも広く慕われ後に父子の裁定や逸話をまとめた「板倉政要」が編まれた。
あまりに父子の声望が高かったため、事実だけではなく創作や海外の判例・逸話も「板倉父子の裁き」として描かれており、さらに時代が下ってかの名奉行・大岡越前の逸話として流用されたものも数多くある。その中で最も著名なのはあの「三方一両損」である。