三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
※アイコンは樊建
土井利勝(どい・としかつ)
三河の人(1573~1644)
徳川秀忠の腹心として絶大な権勢をふるった。
水野信元(みずの・のぶもと)の三男に生まれたが、利勝が3歳の時に父は武田家と内通した嫌疑を掛けられ、織田信長の命で徳川家康によって処刑された。
信元は家康の叔父(母の弟)にあたり、幼い従弟の利勝を哀れんだ家康は、土井家の養子に迎えさせた。
土井家には男子がいたが家康の親類という血筋からか利勝が家督を継いだ。
もともと利勝は土井家の実子であるという説、はては家康の落胤説もあり、当時の家康は正室と対立しており、また我が子同然に利勝をかわいがったとされ、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にすら落胤説は記されている。
なお利勝自身はこの落胤の噂を酷く嫌っていたとされる。
1579年、徳川秀忠が生まれると、29歳の安藤重信(あんどう・しげのぶ)、23歳の青山忠成(あおやま・ただなり)に並び7歳の利勝が傅役を命じられた。
その後は秀忠の腹心として頭角を現していき、1602年には下総小見川1万石を得て大名に列した。
1610年に本多忠勝が没すると、家康の命で秀忠の老中に任じられ、政治面のほぼ全権を握った。
1615年大坂夏の陣では戦功も立て、同年には秀忠の長男・徳川家光の傅役を青山忠成の子・青山忠俊(ただとし)や酒井忠世(さかい・ただよ)らとともに命じられる。
1616年、秀忠とともに一国一城令と武家諸法度を制定し、家康が没すると葬儀を任された。
1622年、家康の側近の筆頭格だった本多正純(ほんだ・まさずみ)が失脚した。
利勝の策謀ともささやかれ、最大のライバルを蹴落とした利勝は名実ともに幕府の最高権力を手中にしたと言える。
1623年、家光が将軍に就任すると、慣例では側近も入れ替わるのが常だったが利勝、青山忠俊、酒井忠世は揃って留任した。
秀忠はその数年前に譲位を考えていたが利勝の進言により遅れさせたともいう。
1635年、武家諸法度に参勤交代などを加えて幕府の支配力を強めた。また徳川忠長(ただなが)と加藤忠広(かとう・ただひろ)が改易された背景には、利勝がわざと家光との不仲を装い、諸大名に謀叛を呼びかけたところ、忠長と忠広だけが家光に密告しなかった、とする説がある。
その後も明治中頃まで用いられる寛永通宝の作成など主要な政治運営に携わり、石高も14万石に上ったが1637年、中風を患ったため老中の辞任を申し出た。
家光は慰留したものの大老に任じ、名誉職として実務からは遠ざけ療養に努めさせた。
1644年、72歳で没した。
利勝が頭角を現していった頃、秀忠の周囲に優れた人材は多く、頭脳や能力で利勝に優っている者もいたが、実直さと公明正大さで利勝は抜きん出ており、その言葉はしばしば模範や教訓に用いられたという。