三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)
播磨の人(1545~1613)
徳川家に仕え財政を取り仕切り絶大な権力を握ったが、死後に不正蓄財が発覚し、多くの大名が連座して改易された。
猿楽師の大蔵信安(おおくら・のぶやす)の次男。
父とともに甲斐に流れ着くと、父は武田信玄のお抱えの猿楽師となり、長安は才覚を見出され土屋昌続(つちや・まさつぐ)に仕えた。
姓も土屋に改め、金山の開発や税務を任された。
1575年、長篠の戦いで兄と土屋昌続が戦死し、さらに1582年、武田家も滅亡すると徳川家康に仕えた。
長安が手掛けた邸宅の出来栄えに家康が感心したとも、長安自ら武田家の旧臣を通じて売り込んだとも、また一説には武田勝頼(たけだ・かつより)に疎まれ、猿楽師に戻り三河に移ったところを家康に迎えられたともいう。
徳川家では大久保忠隣(ただちか)の与力に付けられ、大久保姓を賜った。
本能寺の変の混乱に乗じて家康は旧武田領の甲斐と信濃を奪い、本多正信(ほんだ・まさのぶ)と伊奈忠次(いな・ただつぐ)に甲斐の再建を命じたが、実質的にそれを取り仕切ったのは長安とされる。
1590年、豊臣秀吉の命で関東に移った家康は、長安や伊奈忠次を奉行に任じ、また100万石にも及ぶ直轄領の代官として事務の一切を任せた。
1591年には武蔵八王子8千石(実質9万石)を与えられ、1600年の関ヶ原の戦いでは兵站を担当。
天下人となった家康からは全国の金銀山の開発の他、甲斐・石見・美濃・大和・佐渡の5ヶ国もの奉行や代官を同時に任された。
外様としては唯一の年寄(後の老中)の座に就いた長安は大名はおろかある意味では家康すら凌駕する絶大な権力を握り、日本中の武士が彼の顔色をうかがい、畏怖したという。
また関東の交通網を整備し、現代にも残る一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という単位を制定したのも長安である。
しかし晩年には鉱山の採掘量が衰えるとともに家康の信頼も薄れ、全国の代官職も解任されていき、1613年に69歳で没した。黄金の棺に入れ豪奢な葬儀を催すよう遺言したとされ、死因は同時期に相次いで没した加藤清正、池田輝政(いけだ・てるまさ)、浅野幸長(あさの・よしなが)らと同じ腎虚とされるが、老齢でもあり清正らとは違いあまり暗殺説は囁かれていない。
その死からわずか十数日後、権力を隠れ蓑に莫大な不正蓄財をしていたことが発覚し、70~80人とも言われる側室に産ませ、不正にも関わった7人の男子は全員処刑され、一族や利益を得ていた石川康長(いしかわ・やすなが)ら諸大名が処罰された。
猿楽師の生まれ、事務方として徳川幕府の裏での暗躍、死後の電光石火の処罰は様々な憶測や興味を呼び、その生涯や人物像は多くの創作者によって脚色され、また陰謀論など戦国ファンの間では今なお論争が続いている。