三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)
三河の人(1560~1639)
大久保忠世(ただよ)、忠佐(ただすけ)らの弟。八男で本名は大久保忠教(ただたか)。
兄に従い徳川家康に仕え、各地を転戦した。
1582年、高天神城の戦いでは、城主の岡部元信(おかべ・もとのぶ)が決死の突撃を仕掛けた時、まさか先頭に立つ彼が城主とは思わず、軽く槍を合わせただけで家臣に相手を任せてしまい、みすみす大将首を見逃したことを悔やんだという。
1590年、小田原征伐の後に家康が関東に移封となると、忠世は相模小田原を任され、その下で彦左衛門にも3千石が与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の本陣で槍奉行を務めた。
その頃、次兄の忠佐は駿河沼津2万石を治めていたが、一人息子を亡くしてしまい、彦左衛門を養子に迎え跡を継がせたいと打診した。
しかし彦左衛門は「自分の武功ではない」と固辞したため、忠佐の死後に沼津藩は無嗣改易となった。
忠世も没し、その嫡子の大久保忠隣(ただちか)も失脚し改易となると、彦左衛門も連座して改易された。
しかし家康の直臣の旗本としてすぐに復帰し、家康の死後も徳川秀忠・家光の奉行を務めた。
1635年頃から隠居し「三河物語」の執筆に専念したと思われ、1639年に80歳で没した。
死の間際に家光から5千石の加増を打診されたが「余命幾ばくもない自分にはありがたいが不要」とやはり固辞したと伝わる。
死後、「三河物語」をもとに数々の逸話が作られ、講談の英雄「天下の御意見番」として彦左衛門は庶民はもちろん武士にも人気を博した。
再三にわたり加増を固辞した一方で、家臣や浪人たちの仕官のため奔走するなど面倒見がよく、生前から周囲の者に慕われていたのも、その下地となっただろう。
しかし創作色の強い「三河物語」の記述は史実と混同されることも多く、後世の史家や戦国ファンにとっては虚実入り混じったノイズのように厄介な代物でもある。