三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)
三河の人(1553~1628)
徳川十六神将に数えられる大久保忠世(ただよ)の嫡子。
11歳で徳川家康に仕え、16歳で初陣を飾った。父とともに家康の下で戦い、三方ヶ原の戦いでは全軍が潰走するなか、家康のそばを離れず付き従い賞賛された。
1582年、本能寺の変の際には堺にいた家康に同行しており、伊賀を越えての逃避行に貢献した。
混乱に乗じて甲斐・信濃を奪うと領国経営を命じられ、後の大久保長安(ちょうあん)を抜擢し大いに腕を振るわせ、大久保姓を与えた。
1590年、小田原征伐後に家康が関東に移封されると、武蔵羽生2万石を与えられた。
さらに家康の跡取りとなる徳川秀忠の家老につけられ、1594年に父・忠世が没すると家督とともに遺領の相模小田原6万5千石を継いだ。
豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が失脚した際、秀次は秀忠を人質に取り仲介役を強制しようとしたが、忠隣がそれを察して間に入り、巧みに時間稼ぎをしてその隙に秀忠を避難させたという逸話がある。
また家康が重臣を集め誰を後継者にすべきか論じさせた時、武勇に勝る結城秀康(ゆうき・ひでやす)や松平忠吉(まつだいら・ただよし)の名が挙がるなか、忠隣は武名で劣る秀忠の名を挙げたという。
1600年、関ヶ原の戦いでは中山道を進む秀忠に従い、途上の信濃上田城の攻撃を主張し、反対する本多正信(ほんだ・まさのぶ)と衝突。秀忠は攻撃を採用したが真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子の激しい抵抗により甚大な被害を蒙り、また天候の悪化なども重なり関ヶ原の本戦には間に合わなかった。
1601年、上野高崎13万石への加増を断り秀忠のもとに残り、1610年には老中に就任し、征夷大将軍となった秀忠の片腕として、実質的に幕府の最高権力者の一人に上り詰めた。
しかし翌年に病で長男に先立たれると、失意のあまり政務に支障をきたし、家康や周囲の者の不興を買った。
さらに1613年、幕府の許可無く養女を他家に嫁がせ、秀忠の怒りまで買い、娘婿を改易された。忠隣も処分に憤り秀忠との関係が悪化するなか、大久保長安が没するとすぐさま莫大な不正蓄財が発覚した。
窮地に追い込まれた忠隣が謀叛を企んでいるという噂すら流れ、ついに翌年1月、改易処分が下された。
改易を伝える使者として板倉勝重(いたくら・かつしげ)が到着した時、忠隣は京の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。勝重が来たと聞くや全てを悟り「流罪となっては将棋も指せなくなる。この一局が終わるまで待ってもらいたい」と言い、勝重もそれを許した。
京の民衆は処分を知ると、忠隣の謀叛による大乱を恐れ家財道具をまとめて逃げ出す準備にかかったという。
6日後には小田原城は本丸を残し取り壊され、無嗣断絶した叔父の大久保忠佐(ただすけ)の城も破却された。
忠隣は近江に配流となり、井伊直孝(いい・なおたか)に身柄を預けられ、わずか5千石の知行を与えられ蟄居した。
何度となく弁明書を提出したものの許されることはなく(家康の死後、井伊直孝が代わりに弁明しようとしたが幕府の怒りを買う真似をするなと忠隣が止めたという逸話も伝わる)1628年、75歳で没した。
大久保家は歴代の武功から存続を許され、忠隣の跡は孫の大久保忠職(ただもと)が継いだ。
その次代に小田原藩主に返り咲き、また忠隣に連座し謹慎していた次男の石川忠総(いしかわ・ただふさ)は早期に帰参を許され、大坂の陣で武功を立て大名に列している。
改易の理由として政敵の本多正信・正純(まさずみ)父子による陰謀論がささやかれるが、正信は小田原に残された忠隣の母や妻の消息を伝えており、むしろ親しい間柄にあった。
また忠隣の叔父・大久保彦左衛門(ひこざえもん)も正信は忠隣に恩があり、両者の間に諍いなど無いと断じている。