三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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伊奈忠次(いな・ただつぐ)
三河の人(1550~1610)
徳川家康に仕えた名臣。
1563年、父の伊奈忠家(ただいえ)は三河一向一揆に加わるため家康のもとを出奔した。
だが1575年、長篠の戦いで武功を立て帰参を許された。忠次は父とともに家康の嫡子・徳川信康(のぶやす)のもとに付けられたが、信康が武田家に内通した嫌疑を掛けられ自害を命じられると、再び父子は出奔し和泉堺へ逃げた。
1582年、本能寺の変が起こると堺を遊覧中だった徳川家康はわずかな供回りしか連れておらず窮地に陥ったが、忠次が足下に駆けつけ帰国を手伝ったため再び帰参を許された。
その後は奉行として頭角を現していき、兵站や交通網の整備を一手に担った。
1590年、家康が関東に移ると大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)らとともに代官を務め、徳川家の関東支配と発展に大きく貢献した。
その際の逸話として以下の話が伝わる。
小田原城の米蔵の備蓄量を調べるよう命じられると、忠次はわずか数日でそれを終えてしまった。
戦国最大の巨城と言われた小田原城には無数の米蔵があるのにと、あまりの早さに家康がいぶかると、忠次は「米蔵を一つ一つ数えていたら膨大な時間がかかり、そのうえ正確ではなく、不正を働く者が出るかもしれません。だから付近の村長に命じて城に納めた租税の量を報告させました」と答え、家康を感嘆させたという。
1610年、61歳で没した。
内政担当のためその事績はあまり表に出ないが、関東全域の検地、開発、河川改修、治水工事などその働きは多岐にわたり、今日の関東の発展、首都東京の繁栄への貢献は計り知れない。
武士や商人はもとより農民にも養蚕や製塩技術、桑や麻の栽培方法を教えたためまるで神仏のように慕われたと言われ、次男で父の仕事を引き継いだ伊奈忠治(ただはる)ともども伊奈町として現在も(合併により忠治のほうは消滅したが)埼玉県に残っている。
また関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はそのほとんどが忠次の官位である備前守に由来している。