三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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足利義氏(あしかが・よしうじ)
相模の人(1541~1583)
関東の将軍家とも呼ぶべき古河公方の第5代。
第4代古河公方である足利晴氏(はるうじ)の次男で、母は北条氏康の妹。
1546年、河越夜戦で北条氏康に大敗し、権威を失った父の晴氏は、氏康の甥にあたる義氏への家督相続を余儀なくされた。
しかし義氏は北条家の勢力拡大のための傀儡として用いられ、常に監視下に置かれ代々の居城である古河城にも戻れなかった。
また関東管領の上杉謙信は義氏の相続を認めず、北条家への謀叛を企み追放され、上杉家が庇護していた義氏の兄・足利藤氏(ふじうじ)こそが正統な後継者だと主張した。
1570年、北条家と上杉家の同盟が締結されると、すでに藤氏も北条家に敗れて処刑されていたため、謙信は義氏の相続を認めた。
念願かないようやく古河城を得ることもできたが、氏康の娘を正室に迎えさせられ、その兄である北条氏照(うじてる)を後見役に付けられるなど、傀儡の立場に変わりはなかった。
1583年、43歳で没した。
男子は早逝していたため、家臣は協議の上で娘の足利氏姫(うじひめ)に古河城主を継がせた。
その後、名家の血が途絶えるのを惜しんだ豊臣秀吉は、義氏の大叔父でかつて小弓公方を自称し古河公方と対立した足利義明(よしあき)の孫である足利国朝(くにとも)と氏姫を結婚させ、喜連川を与えた。
これが喜連川藩の成立につながり、古河公方の血は後世まで残った。
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足利晴氏(あしかが・はるうじ)
下総の人(1508~1560)
関東の将軍家とも呼ぶべき古河公方の第4代。
1529年頃より、父で第3代古河公方の足利高基(たかもと)と、弟で関東管領の上杉憲寛(うえすぎ・のりひろ)を相手に公方と管領の座をめぐり激しく争った。
関東の諸大名を巻き込み、後に「関東享禄の内乱」と呼ばれるこの戦いを制し、1531年に晴氏は第4代公方に就任。
晴氏に協力した上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)が義兄の憲寛を追放し関東管領の座を手にした。
1538年、晴氏は北条氏綱(ほうじょう・うじつな)の援軍を得て、叔父で小弓公方を自称していた足利義明(よしあき)を討った。
だが氏綱の死後、家督を継いだ北条氏康とは敵対し1546年、上杉憲政とともに関東の諸大名に号令を掛け8万もの大軍を集め、北条方の河越城を囲んだ。一説には下総の千葉家を除く全ての大名が号令に応じたとされる。
だが守る北条綱成(つなしげ)は北条家屈指の名将で、半年にわたり籠城を続けた。
遠征に出ていた氏康は引き返し、晴氏らに偽りの降伏を申し出て、攻撃されるとわざと逃げ出すなどして油断させると、綱成と示し合わせ一気に夜襲を仕掛けた。
城からは綱成も打って出て、挟撃された連合軍は大敗し、世に河越夜戦と呼ばれるこの戦は「日本三大奇襲」の一つに数えられた。
敗れた晴氏の権威は地に落ち、1552年には息子の足利義氏(よしうじ)に公方の座を譲り、隠居を余儀なくされた。
そして1554年、北条軍に古河城も落とされ、相模で幽閉された。
3年後に古河城へ戻るのを許されたのも束の間、わずか2ヶ月後に長男の足利藤氏(ふじうじ)が謀叛を企んだため、藤氏は追放、晴氏は再び身柄を拘束され、1560年に幽閉先で没した。享年53。
その後、北条氏康の甥にあたる義氏は、北条家の勢力拡大のための傀儡として用いられ、古河公方の地位は有名無実化していった。
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武田信繁(たけだ・のぶしげ)
甲斐の人(1525~1561)
武田信虎(のぶとら)の子。武田信玄の弟。
1541年、信玄は父の信虎を追放し家督を継いだが、信憑性の薄い「甲陽軍鑑」によると信虎は信玄を差し置いて信繁への相続を考えていたという。
信繁は「武田二十四将」の副大将に挙げられる知勇兼備の名将で、早くから信玄の副将格として軍事・政治・外交に中心的な役割をこなした。
信玄の名代として合戦の指揮を取り、戦後の論功行賞を担当することもたびたびあったという。
しかし1561年、第4次川中島の戦いで武田軍は上杉謙信に敗れ、信繁は討ち死にを遂げた。
信玄は遺体にすがりつき号泣したといい、謙信すらその死を惜しんだと伝わる。
「信玄の懐刀」と呼ばれた重臣・山県昌景(やまがた・まさかげ)は「信繁、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)こそは、毎事相整う真の副将なり」と評した。
また真田昌幸(さなだ・まさゆき)は自身の子を信繁と名付けたが、彼こそはかの真田幸村である。
豊臣秀吉は弟でやはり副将格の豊臣秀長(ひでなが)を失った後、随所に判断の衰えを見せたが、信玄は信繁亡き後もさほどの衰退は見せなかった。
しかし1565年、信玄の長男・武田義信(よしのぶ)が父の謀叛を企んだかどで幽閉され、命を落としているが、信繁さえ健在なら、そのような家中の内紛は起きなかっただろうと言われたという。
江戸時代、信繁が息子に遺した99ヶ条にわたる「武田信繁家訓」は武士の心得として読み継がれた。
その内容も「論語」など海外の文献から多数の引用がされており、信繁の教養の高さがしのばれる。
※アイコンは武田信玄
武田信廉(たけだ・のぶかど)
甲斐の人(1532~1582)
武田信虎(のぶとら)の子。武田信玄の弟。
出家後の逍遙軒(しょうようけん)の名でも著名。
1541年、信玄は父の信虎を追放し家督を継ぐと、信濃への侵攻を本格化した。
信廉の名は1548年頃から現れ、1561年に次兄の武田信繁(のぶしげ)が川中島の戦いで討ち死にすると、一門衆の筆頭となった。
1573年、信玄が急死すると、その死を伏せるため生前から影武者を務めていた信廉が代役となった。
信廉の容貌は側近にすら見分けがつかないほど信玄に生き写しと言われ、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)は信玄死すの噂を聞き、真相を探ろうと板部岡江雪斎(いたべおか・こうせっさい)を送り込んだが、信廉だと見抜けなかったという。
また当時の武士には珍しく画家としての側面を持ち、多くの作品が現存している。
信玄の死後に父の信虎が帰国を望むと、信廉が引き取って居城に住まわせ、その際に描いた父の肖像画もある。
1575年、長篠の戦いに出陣し「信長公記」によると山県昌景(やまがた・まさかげ)に続く二番手で攻撃を仕掛けたが大敗を喫した。
多くの将がこの戦いで討ち死にを遂げたが信廉は生還した。
1582年、織田信長による甲州征伐が始まると、大した抵抗もせずに居城を捨て撤退した。
武田家の滅亡後、残党狩りによって殺害された。享年51。
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本庄繁長(ほんじょう・しげなが)
越後の人(1540~1614)
上杉謙信、景勝に仕え「上杉家に鬼神あり」とうたわれた猛将。
繁長が生まれる直前、本庄家は叔父にあたる小川長資(おがわ・ながすけ)の謀略によって城を奪われ、父は繁長の生まれる5日前に失意のうちに病死した。
当主に立てられた繁長は1551年、父の13回忌に出席した長資を捕縛し自害へ追い込み、実権を奪い返した。
当初は長資を支援していた上杉謙信と対立したものの、1558年に降伏すると、川中島の戦いや関東侵攻で武功を立てた。
だが1568年、謙信の命で長尾藤景(ながお・ふじかげ)を酒宴と偽りおびき寄せ暗殺したものの、繁長は手傷を負い、恩賞も無かったことに不満を抱き、大宝寺義増(だいほうじ・よします)とともに謀叛を起こした。
勇猛な繁長に手を焼いた謙信は、まず義増を攻めて降伏させ、孤立した繁長を攻撃した。さしもの繁長もたまらず翌年に蘆名家の仲介を受け、嫡子の本庄顕長(あきなが)を人質に出して上杉家に帰参した。
1578年、謙信が没し上杉景勝と上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い(御館の乱)が持ち上がると、繁長は景勝方につく一方で、顕長を景虎方に送り込み、景勝の勝利に終わると顕長を廃嫡した。
これは顕長を助命するための方策でもあり、戦後も顕長は上杉家に変わらず仕えている。
1583年、最上義光(もがみ・よしあき)が庄内に侵攻すると、繁長は大宝寺義増の子・大宝寺義興(よしおき)とともにそれを迎え撃った。
義興は本庄家との関係を密にするため繁長の次男、後の大宝寺義勝(よしかつ)を養子として迎え入れた。
しかしこれが庄内の他の国人衆の反発を招き、1587年に義興は城を落とされ自害した。
翌1588年、最上軍が伊達政宗と対峙し動けない隙をつき、繁長・義勝は一気に大宝寺家の旧領を奪い返し、1589年には豊臣秀吉に拝謁し大宝寺家を上杉家の与力大名として認めさせた。
1590年、伊達政宗が扇動したと思われる大規模な一揆が奥州で巻き起こった。
繁長・義勝父子も扇動の嫌疑を掛けられ改易され、大和に配流された。
その後、文禄の役に参戦して武功を立てたため帰参を許された。
1600年、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍についた上杉家は伊達政宗の猛攻にさらされた。
繁長・義勝は福島城を守り、大軍に包囲されたものの防衛に成功した。この戦いは後世で軍記物に描かれ、上杉家はそれを通説として広く喧伝したため、繁長の名は庶民の間にも広まっていったという。
家中では徳川家康に降伏すべきか否か激論が交わされ、直江兼続は抗戦を、繁長は降伏を主張した。
上杉景勝は降伏を容れ、繁長を使者として上洛させた。上杉家は改易こそ免れたが会津120万石から米沢30万石への大減封を命じられた。
繁長は引き続き福島城代として上杉家に貢献し1614年、74歳で没した。
景勝は繁長の武勇を讃え「武人八幡」の称号を与え、大宝寺義勝を本庄家に戻し本庄充長(みつなが)と改名させ家督を継がせた。
その後も本庄家はさらなる減封で福島を失った後も上杉家に仕え続けた。
※アイコンは雍闓
新発田重家(しばた・しげいえ)
越後の人(1547~1587)
新発田家の次男に生まれたが、五十公野家を継ぎ五十公野治長(いじみの・はるなが)を名乗った。
上杉謙信に仕え川中島の戦いや関東出兵で活躍し、謙信死後の御館の乱では上杉景勝を支持し、家督相続に大いに貢献した。
1580年、兄の死により新発田家に戻り新発田重家に改名し家督を継いだ。
だが新発田家の相続を認めた他に景勝からの恩賞は無く、重家を景勝陣営に引き込んだ安田顕元(やすだ・あきもと)は景勝と重家の間で板挟みになった末、責任を取って自害した。
重家は大いに不満を募らせ、それにつけ込んだ伊達輝宗(だて・てるむね)の支援を受けて反乱を起こした。
反乱には新発田家はもちろんのこと同族の加地家、景勝と家督を争った上杉景虎(かげとら)の旧臣や支持勢力も加わり大規模な物となった。
さらに伊達家と同盟を結ぶ織田家からは柴田勝家、森長可(もり・ながよし)がこの機に乗じて西・南の二方面から侵攻を再開し、上杉家は窮地に陥った。
1582年、討伐軍も撃退されると景勝は蘆名盛隆(あしな・もりたか)に援軍を要請したが、盛隆は裏で伊達輝宗と通じており、要請に応じると見せかけ上杉領に攻め入った。
景勝は本庄繁長(ほんじょう・しげなが)に重家の相手を任せ、織田軍との戦いに専念したが6月に本能寺の変で織田信長が討たれると、織田軍は全軍撤退した。
景勝は織田軍が去り空白地となった信濃に攻め込み徳川家・北条家と対峙したため、重家との間に戦端は開かれなかった。
翌1583年、信濃を徳川家康が抑えると、景勝は重家への攻勢を強めたが、自ら出陣した放生橋の戦いで惨敗を喫し、危うく自身も討ち取られそうになった。
1584年、重家は景勝に誘い出され、その隙に水原城を落とされたが、重家はすぐさま転進し直江兼続の率いる別働隊を撃破し、城を奪回した。
新発田軍の士気は上がり、越中を治める佐々成政(さっさ・なりまさ)と連携し上杉軍の挟撃を目論んだが、同年に蘆名盛隆が痴話喧嘩から家臣に殺害されると、戦況は暗転した。
1585年、輝宗から家督を継いだ伊達政宗は同盟を破棄し蘆名領に攻め込み、対上杉を担当していた輝宗も亡くなると、重家の後ろ盾は無くなった。
さらに藤田信吉(ふじた・のぶよし)の調略によって新潟港が上杉家の手に落ちてしまい、新発田家は交易と兵糧輸送の道を断たれた。
1586年、景勝は自ら上洛し豊臣秀吉に臣従し、翌1587年に豊臣軍の援兵を受けて新発田城を大軍で囲んだ。
景勝・秀吉は再三にわたり降伏勧告を出したが、重家は頑としてこれを撥ねつけた。
補給線を断たれ兵糧もなく、支城も失った重家は城内で酒宴を催すと、それが終わるやいなや門を開き打って出た。
重家は一族でもある色部長真(いろべ・ながざね)の陣に斬り込み「親戚のよしみだ。我が首を与えよう」と言うと甲冑を脱ぎ捨て切腹して果てた。享年41。
新発田家の反乱は戦国時代でも稀な7年もの長きに及んだ。
景勝の家督相続から間もなくに起こり家中の混乱に乗じたこと、伊達・蘆名両家の支援を受けたこと、織田・最上ら周囲の勢力が上杉領に攻め込み対新発田に専念できなかったことなど理由は多々あるが、重家の武勇や地の利を活かした巧みな指揮もまた長期化に拍車を掛け、同時に上杉家衰退の引き金となったことは間違いないだろう。
※アイコンは趙昂
長連龍(ちょう・つらたつ)
能登の人(1546~1619)
能登畠山家に仕えた長続連(つぐつら)の三男。
若くして出家し孝恩寺の住職となったため、通称も孝恩寺(こうおんじ)を用いた。
畠山家は続連ら「畠山七人衆」と呼ばれる重臣によって長らく傀儡政権を布かれ、当主の追放や暗殺が相次いでいた。
しかし次第に結束は衰え、七人衆の間で争いが起こると、1577年に上杉謙信の侵攻を招き七尾城を包囲された。
続連は連龍に命じて織田信長に援軍を求めさせたが、七人衆の温井景隆(ぬくい・かげたか)・三宅長盛(みやけ・ながもり)兄弟と遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)の裏切りによって援軍の到着を前に城は陥落し、長一族は連龍を残し死に絶えてしまった。
連龍は織田家に仕え復讐を志し、北陸方面軍を率いる柴田勝家、前田利家のもとで戦った。
上杉謙信が没すると形勢は織田方に傾き、織田軍は能登を攻略し、降伏した遊佐続光は処刑された。なお長家の家譜では続光は逃亡したものの連龍が追撃し首を取ったとされる。
能登は前田利家に与えられ、連龍は以降、前田家に仕えた。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、温井景隆・三宅長盛が上杉景勝の支援を受けて攻め寄せたが、前田軍はこれを撃退し二人の首を挙げ、連龍は一族の仇を全員討ち果たした。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは戦線離脱する前田軍の殿軍を務め、連龍の家臣30数名が戦死した。
1584年、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が能登の末森城を囲んだ。倹約に努めていた前田家の兵は少なく、利家の妻・まつが「銭に槍を持たせればいいでしょう」と皮肉を浴びせたほどだったが、連龍の家臣が救援に駆けつけ、無事に守り切った。
戦後、単身で危険を顧みずやってきた連龍を利家は「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と激賞したという。
小田原征伐、文禄・慶長の役でも活躍し、1599年に利家が没して後はますます重きを置かれた。
利家は遺言で頼るべき人材として連龍と高山右近(たかやま・うこん)の名を挙げており、また連龍はもともと織田信長から所領安堵を受けていたため、前田家に仕えながらも与力大名にも等しい身分と見なされた。
1606年、家督を長男に譲ったが早逝してしまったため1611年に当主の座に復帰し、70歳にして大坂の陣にも出陣した。
最終的に一家臣としては破格の3万3千石もの大身に上り、1619年に連龍は74歳で没した。生涯で41度の戦に参加したと伝わる。
長家は以後も代々、前田家の家老として仕えた。
※アイコンは公孫康
松前慶広(まつまえ・よしひろ)
蝦夷の人(1548~1616)
蝦夷の大名・蠣崎季広(かきざき・すえひろ)の三男。
兄2人は実姉に毒殺されたため、1582年の父の隠居に伴い家督を継いだ。
蠣崎家は出羽に一大勢力を築く安東家に古くから従属しており、安東家の意向で季広の代にはアイヌ民族と融和路線に転じ、蝦夷の支配権を確立していた。(季広の独断とする説もある)
1590年、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、慶広は蝦夷の代官として安東実季(あんどう・さねすえ)に随行し上洛した。
そして前田利家に取り入り秀吉に謁見すると、所領安堵と従五位下・民部大輔の官位を得て、名実ともに安東家からの独立を果たした。
季広はこれを大いに喜び、「自分はこれまで安東家に仕えてきたが、お前は天下の将軍の臣となった」と息子を伏し拝んだという。
1591年、九戸政実(くのへ・まさざね)の乱が起こると慶広も出陣を命じられた。
その際にはアイヌから得た毒矢を用い、大変な威力を誇ったと記録されている。
1593年、文禄の役に先立ち秀吉に謁見すると「狄の千島の屋形(異民族の島の主)」が参戦することは、同じ異民族と戦うにあたって成功の兆しであると秀吉は大喜びし、さらに上位の官位を与えようとした。
慶広はそれを辞退し、代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求めた。慶広は朱印状をアイヌに示し「命令に背けば秀吉が10万の兵で討伐に来る」と脅し、ついに蝦夷全域(北海道・樺太)の掌握に成功した。
1598年、秀吉が没すると慶広はいち早く徳川家康によしみを通じた。
蝦夷の地図を献上し臣従の証とし、また姓を家康の旧姓「松平」と、秀吉との間を取り持ってくれた「前田」利家から一字ずつもらい受け「松前」と改めた。
これが功を奏し、1604年にはアイヌ交易の独占権を認められ、さらに石高は当時の蝦夷地では稲作が出来なかったため1万石どころか0石にも等しかったものの、松前家は大名格と見なされ松前藩を立てられた。
1609年、猪熊事件(公卿による乱交パーティー)により配流となった花山院忠長(かざんいん・ただなが)を、慶広は賓客として迎え入れた。忠長は5年後に津軽へ移されたが、公家との太いパイプの構築に成功し、松前家には以後、公家の娘が代々輿入れし、松前藩に公家文化をもたらした。
1614年、豊臣家に通じたとして四男を誅殺し、翌年には大坂夏の陣に幕府方として参戦した。
1616年、69歳で没し、長男は早逝していたためその嫡子にあたる松前公広(きんひろ)が19歳で跡を継いだ。
松前藩はその後、幕府にしばしば蝦夷の支配権を奪われることはあったが、明治期まで存続した。
※アイコンは孫乾
支倉常長(はせくら・つねなが)
出羽の人(1571~1622)
伊達政宗の家臣。
名の常長は同時代の資料や本人の署名では確認されず、長経(ながつね)の名を用いたと思われる。
常長の名が現れるのは支倉家がキリシタンを匿った罪でいったん断絶し、再興してからのことであり、長経との関係を隠すため用いだしたとの説がある。
山口家に生まれたが幼少時に伯父の支倉家の養子となった。
長じると政宗のもとで文禄・慶長の役などにも出陣し活躍した。
1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの船が上総で座礁し、地元民に救助された。
徳川家康は三浦按針(みうら・あんじん)の建造したガレオン船をロドリゴに贈り、無事に帰国させたことからエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
それを受け政宗は1612年、常長を正使、エスパーニャ人の宣教師ルイス・ソテロを副使に遣欧使節団を作り、エスパーニャ経由でローマへ送り出した。
目的は通商交渉の他、エスパーニャと軍事同盟を結び、徳川幕府の打倒を狙う意図があったとされる。
一回目の出港は暴風により船が座礁したためすぐに引き返したが、翌年の二回目の船出は成功し、1615年にエスパーニャ国王、ローマ教皇に相次いで謁見がかない、アジア人では初のローマ貴族にも列した。
しかし出港後間もなく、日本国内ではキリスト教の弾圧が強まり、バテレン追放令により高山右近(たかやま・うこん)ら有力者ですら国外追放されるなどしていたため、交渉はまとまらず、常長は1620年に帰国した。
2年後、失意のうちに常長は没し、跡を継いだ嫡子の支倉常頼(つねより)も1640年、家臣がキリシタンであった責任を問われ処刑され、家名は断絶した。
しかし常長の孫の代に再興を許され、以降も伊達家に仕えたという。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は現存し国宝に指定されている。
それに含まれる常長の肖像画は日本人を描いた最古の油絵とされ、また資料の中で「支倉」を「FAXICVRA」と表記したことから当時はハ行を唇音で発音していた証拠となっている。
※アイコンは馬休
津軽信枚(つがる・のぶひら)
陸奥の人(1586~1631)
陸奥津軽の大名・津軽為信(ためのぶ)の三男。
1600年、関ヶ原の戦いでは為信が東軍に、長男の津軽信建(のぶたけ)が西軍についた。
これは真田家や九鬼家のように東西両軍に分かれることで家名存続を図ったと思われる。
信枚は確たる証拠はないが、ある関ヶ原合戦図の東軍本陣に津軽家の旗印である「卍」の旗が描かれていること、戦後に為信を差し置き加増を受けていることなどから、東軍に属したと見られる。
1607年、信建と為信が相次いで没し、次兄も早くに亡くなっていたため三男ながら家督を継いだ。
父の命で兄弟揃ってキリシタンになっていたが、相続の報告と御礼のため江戸へ上った際、南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)に弟子入りし天台宗に改宗し、熱心な信徒となった。
翌1608年、妹婿の津軽建広(たけひろ)らが信建の遺児・熊千代(くまちよ)を擁し家督争いを起こした。
津軽家は改易の危機に陥ったが、信枚は天海を通じて幕府の後ろ盾を得て、改めて正式に相続し、高坂蔵人(こうさか・くらんど)に命じて建広の城を落とし、熊千代とともに追放した。
ところが1612年、高坂蔵人が信枚の寵愛する小姓を囲い込んだため、小姓と蔵人を粛清する騒動が持ち上がった。
蔵人の遺臣は反乱を起こし、一族郎党と縁者が処刑されたため、累が及ぶのを恐れた者が次々と逃亡し、津軽家の家臣は半減したという。
しかし天海を通じて得た幕府からの信頼は揺るがず、5万石にも満たない大名としては破格の五層の天守を持つ鷹岡城を築き、また天海の勧めで徳川家康の養女・満天姫(まんてん)を妻に迎え入れた。
信枚はすでに石田三成の娘で、豊臣秀吉の正室ねねの養女でもある辰姫(たつ)を正室にしていたが、側室に降格させて満天姫を正室とした。
この婚姻は豊臣家と縁戚の信枚の去就をうかがう政治的な意味合いも強く、辰姫も納得ずくのようで、上野の飛び領地に移り住んだ辰姫を、信枚は参勤交代のたびに訪ね、1619年には満天姫に先駆けて長男をもうけるなど、夫婦仲は変わらず睦まじかった。
1614年、大坂冬の陣では兵を率いて江戸に上ったが、家康から江戸城の守備を命じられた。
なお弘前藩の記録では東北の抑えとして帰国を命じられたと記されている。
1616年、家康が没し、翌年に家康を祀る日光東照宮が建立されると、信枚は鷹岡に勧請(分霊)を申し出た。天海の働きかけもあり、徳川御三家や名だたる親藩・譜代大名に先駆け許諾された。
このように幕府との関係は良好かと思われたが1619年、突如として信濃川中島10万石へと移封を命じられた。
石高こそ倍増するが先祖代々の土地を離れること、移封に莫大な費用が掛かること、また津軽に代わって入るのは無断の築城で減封となった福島正則であることなど、実質的に処罰に等しかった。
ところが内示から1ヶ月も経たないうちに話は撤回され、福島正則が信濃川中島4万5千石に移封することで決着した。
移封の理由は謎に包まれたままで、かつての家督争いや豊臣家との関係や、幕府内の派閥争いが原因とも言われており、いずれにしろ信枚や満天姫、天海らの奔走により立ち消えになったと思われる。
1627年、鷹岡城の天守が落雷で炎上し、火薬に引火し大爆発を起こし本丸を焼失した。
炎の中に信枚の伯母(為信の妻の姉)を見たという者がおり、彼女は為信に実家を乗っ取られ失意のうちに没しているため、祟りと噂された。(ちなみに妻の幼い弟らが溺死を遂げているがこれは為信による暗殺と言われている)
信枚は天海に相談し、天台密教の破邪の法から鷹岡を「弘前」に改めた。
信枚は城下町の発展に尽くし、新たに青森港を築き、後の弘前市、青森市の繁栄に寄与し1631年、江戸藩邸にて48歳で没した。
跡継ぎには正室・満天姫の子ではなく、信枚の強い意向により辰姫の子で石田三成の孫にあたる、13歳の津軽信義(のぶよし)が立てられた。
信義は暗愚と言われ、立て続けに御家騒動を2つ巻き起こしたものの、どうにか改易も減封も免れ、弘前藩は幕末まで存続した。