三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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※アイコンは武田信玄
武田信廉(たけだ・のぶかど)
甲斐の人(1532~1582)
武田信虎(のぶとら)の子。武田信玄の弟。
出家後の逍遙軒(しょうようけん)の名でも著名。
1541年、信玄は父の信虎を追放し家督を継ぐと、信濃への侵攻を本格化した。
信廉の名は1548年頃から現れ、1561年に次兄の武田信繁(のぶしげ)が川中島の戦いで討ち死にすると、一門衆の筆頭となった。
1573年、信玄が急死すると、その死を伏せるため生前から影武者を務めていた信廉が代役となった。
信廉の容貌は側近にすら見分けがつかないほど信玄に生き写しと言われ、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)は信玄死すの噂を聞き、真相を探ろうと板部岡江雪斎(いたべおか・こうせっさい)を送り込んだが、信廉だと見抜けなかったという。
また当時の武士には珍しく画家としての側面を持ち、多くの作品が現存している。
信玄の死後に父の信虎が帰国を望むと、信廉が引き取って居城に住まわせ、その際に描いた父の肖像画もある。
1575年、長篠の戦いに出陣し「信長公記」によると山県昌景(やまがた・まさかげ)に続く二番手で攻撃を仕掛けたが大敗を喫した。
多くの将がこの戦いで討ち死にを遂げたが信廉は生還した。
1582年、織田信長による甲州征伐が始まると、大した抵抗もせずに居城を捨て撤退した。
武田家の滅亡後、残党狩りによって殺害された。享年51。