三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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武田信繁(たけだ・のぶしげ)
甲斐の人(1525~1561)
武田信虎(のぶとら)の子。武田信玄の弟。
1541年、信玄は父の信虎を追放し家督を継いだが、信憑性の薄い「甲陽軍鑑」によると信虎は信玄を差し置いて信繁への相続を考えていたという。
信繁は「武田二十四将」の副大将に挙げられる知勇兼備の名将で、早くから信玄の副将格として軍事・政治・外交に中心的な役割をこなした。
信玄の名代として合戦の指揮を取り、戦後の論功行賞を担当することもたびたびあったという。
しかし1561年、第4次川中島の戦いで武田軍は上杉謙信に敗れ、信繁は討ち死にを遂げた。
信玄は遺体にすがりつき号泣したといい、謙信すらその死を惜しんだと伝わる。
「信玄の懐刀」と呼ばれた重臣・山県昌景(やまがた・まさかげ)は「信繁、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)こそは、毎事相整う真の副将なり」と評した。
また真田昌幸(さなだ・まさゆき)は自身の子を信繁と名付けたが、彼こそはかの真田幸村である。
豊臣秀吉は弟でやはり副将格の豊臣秀長(ひでなが)を失った後、随所に判断の衰えを見せたが、信玄は信繁亡き後もさほどの衰退は見せなかった。
しかし1565年、信玄の長男・武田義信(よしのぶ)が父の謀叛を企んだかどで幽閉され、命を落としているが、信繁さえ健在なら、そのような家中の内紛は起きなかっただろうと言われたという。
江戸時代、信繁が息子に遺した99ヶ条にわたる「武田信繁家訓」は武士の心得として読み継がれた。
その内容も「論語」など海外の文献から多数の引用がされており、信繁の教養の高さがしのばれる。