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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―足利晴氏  古河公方

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戦国列伝―足利晴氏  古河公方


※アイコンは劉虞

足利晴氏(あしかが・はるうじ)
下総の人(1508~1560)

関東の将軍家とも呼ぶべき古河公方の第4代。
1529年頃より、父で第3代古河公方の足利高基(たかもと)と、弟で関東管領の上杉憲寛(うえすぎ・のりひろ)を相手に公方と管領の座をめぐり激しく争った。
関東の諸大名を巻き込み、後に「関東享禄の内乱」と呼ばれるこの戦いを制し、1531年に晴氏は第4代公方に就任。
晴氏に協力した上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)が義兄の憲寛を追放し関東管領の座を手にした。

1538年、晴氏は北条氏綱(ほうじょう・うじつな)の援軍を得て、叔父で小弓公方を自称していた足利義明(よしあき)を討った。
だが氏綱の死後、家督を継いだ北条氏康とは敵対し1546年、上杉憲政とともに関東の諸大名に号令を掛け8万もの大軍を集め、北条方の河越城を囲んだ。一説には下総の千葉家を除く全ての大名が号令に応じたとされる。
だが守る北条綱成(つなしげ)は北条家屈指の名将で、半年にわたり籠城を続けた。
遠征に出ていた氏康は引き返し、晴氏らに偽りの降伏を申し出て、攻撃されるとわざと逃げ出すなどして油断させると、綱成と示し合わせ一気に夜襲を仕掛けた。
城からは綱成も打って出て、挟撃された連合軍は大敗し、世に河越夜戦と呼ばれるこの戦は「日本三大奇襲」の一つに数えられた。

敗れた晴氏の権威は地に落ち、1552年には息子の足利義氏(よしうじ)に公方の座を譲り、隠居を余儀なくされた。
そして1554年、北条軍に古河城も落とされ、相模で幽閉された。
3年後に古河城へ戻るのを許されたのも束の間、わずか2ヶ月後に長男の足利藤氏(ふじうじ)が謀叛を企んだため、藤氏は追放、晴氏は再び身柄を拘束され、1560年に幽閉先で没した。享年53。

その後、北条氏康の甥にあたる義氏は、北条家の勢力拡大のための傀儡として用いられ、古河公方の地位は有名無実化していった。

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