三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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内藤昌豊(ないとう・まさとよ)
甲斐の人(1522~1575)
武田四天王に数えられる名将。
武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)に背き父は逃亡したが、後に信虎が信玄らによって追放されると昌豊は信玄に召し抱えられた。
川中島の戦いで一隊を指揮し、主に上野方面で活躍し、国人衆の統率も任された。
もともとは工藤家の出身だが1570年頃に断絶していた武田家譜代の内藤家を継いだと見られる。
武田家の主要な戦の全てに参戦するなど信玄からの信頼厚かったが「昌豊ほどの弓取りならば、常人を抜く働きがあって当然」と感状を与えることはなく、昌豊も「合戦は大将の軍配に従い勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることはない」とそれを気にも掛けなかった。
感状は主君を変える際の再就職に用いられる側面もあり、主君を変えるつもりのない昌豊には、わざわざ与える必要が無いという主従の強固な信頼関係も垣間見える。
また四天王の筆頭格に挙げられる山県昌景(やまがた・まさかげ)は「武田信繁(のぶしげ 信玄の弟)と内藤昌豊こそは真の副将」と賞賛したという。
1575年、長篠の戦いでは山県昌景、原昌胤(はら・まさたね)とともに左翼を任されたが3倍近い圧倒的な戦力差を覆せず大敗。
武田勝頼(かつより)を逃がすため奮闘し、徳川家の兵に首を獲られた。
家督は養子の内藤昌月(まさあき)が継いだ。
昌月は養父と同じく箕輪城代として上野を守り、国人衆の調略を担当した。
1582年、武田家が滅亡すると信濃を追われた実父の保科正俊(ほしな・まさとし)を保護し、素早く滝川一益(たきがわ・かずます)に降り地位を保ったが、間もなく本能寺の変が起こり一益も撤退したため北条家に鞍替えした。
その後、徳川家との戦いで劣勢になると保科正俊は徳川家に寝返った。
昌月は北条家に残ったが1588年に39歳の若さで没した。
1590年、北条家が滅びると昌月の子は保科家に仕え、子孫は家老となった。また昌月の下の子は箕輪城を預けられた井伊家に仕えたという。
高坂昌信(こうさか・まさのぶ)
甲斐の人(1527~1578)
武田四天王に数えられる重臣。
高坂昌信の名で著名だが近年の研究により本名は春日虎綱(かすが・とらつな)が正しく、高坂は一時的に名籍を継いだ香坂家から、昌信は出家名(とすれば読みは「しょうしん」か)と考えられる。
16歳で父を失い、姉夫婦に遺産を奪われ路頭に迷いかけたところを武田信玄に拾われた。
大変な美男子で信玄とは衆道の関係にあり、他の男を寵愛するのに嫉妬した昌信へ信玄が弁解する手紙が残っている。
長じると知勇兼備の名将に育ち、最前線の海津城を任され、五度に渡る川中島の戦いではまず昌信の海津城が攻撃にさらされた。
三方ヶ原の戦いなど武田家の主要な戦には必ず参陣し、特に撤退戦が得意で官名から「逃げ弾正」の異名で呼ばれた。
また記述の信憑性は怪しいが武田家にまつわる様々な逸話を収めた軍学書「甲陽軍鑑」の原本を手掛けたのも昌信とされる。
1573年、信玄が没すると殉死を願ったが、重臣や後継の武田勝頼(かつより)に慰留された。
しかし1575年、長篠の戦いの頃には昌信ら旧臣は疎まれており、彼らの慎重論を退けて決戦を挑んだ勝頼は大敗を喫し、他の四天王らをはじめ多くの重臣が討ち死にした。昌信は参戦していなかったが嫡子が戦死している。
その後は上杉家との同盟締結のため死の間際まで働き、1578年に没した。
家督は次男の高坂信達(のぶたつ)が継ぎ、1582年の武田家滅亡も生き延び上杉家に仕えたものの、北条家や真田家との内通を疑われ誅殺された。
またそれに先立ち森長可(もり・ながよし)の撤退を妨害した報復として、森家を継いだ森忠政(ただまさ)によって1600年、一族皆殺しの憂き目にあい嫡流は途絶えたが、江戸期に甲府の豪商が昌信の子孫を自称している。
真田家に仕えた。
1582年、武田家が織田信長に滅ぼされると、旧臣の真田昌幸(さなだ・まさゆき)は独立した。
彼の妻子は甲斐で人質に取られていたが、城を脱出し昌幸のもとへ向かった。
その途上、昌幸の子の真田信幸(信之)・幸村兄弟は追手を振り切ると、雁ヶ沢で一息ついた。
雁ヶ沢には急な断崖があり、雁でも下りていったら上がれないことから名付けられており、兄弟が「ここから飛び降りられる者はいないだろう」と話していると、嘉兵衛が名乗り出て、止める間もなく断崖に身を投げてしまった。
昌幸のもとにたどり着いた兄弟が顛末を話すと、昌幸は「赤沢ほどの勇士を下らんことで失わせるとは」と叱責した。
ところがそこに嘉兵衛が平然と現れた。この程度では死なないと自慢気に語るのを見るや昌幸の怒りは嘉兵衛に向かい「大事の折に命を粗末にする分別のない者など必要ない」と追放してしまった。
嘉兵衛はその後、徳川家康との戦いで首級を2つ挙げ帰参を許された。武勇に優れ生涯で自ら25もの首級を挙げたという。
月日は流れ、嘉兵衛の息子が嫁を迎えることになった。しかし主君・真田信之の側室(厳密に言えば信之は側室を置かなかったので愛人である)の姪だと聞き、嘉兵衛は「今後お前が出世しても妻のおかげと言われるだろう。侍たる者は志の良し悪しで評価されるべきだ。わしが槍一本で稼いだ百六十石はお前のような者にはもったいない。今後は加増は受けまい」と激昂した。
それからというもの、嘉兵衛は出仕をさぼりがちになり、たまに目覚ましい働きを見せれば翌日から仮病で引きこもり、言葉通り加増されないまま没してしまった。
死後、信之は嘉兵衛の息子に「あれほどの武士にはもっと禄を与えてやりたかったが、その隙を見せなかった」と嘆いたという。
嘉兵衛の武辺者ぶりは人外にも発揮される。
ある葬儀の折、棺を運んでいるとにわかに空がかき曇り、棺が宙に浮かび上がった。
死体を動かしさらってしまう妖怪・火車の仕業だと驚き、一人の武者が棺に飛びついた。そこに嘉兵衛も加勢し、棺に飛び乗り蓋を踏みつけ押さえ込んだ。
彼らの働きで無事に棺を取り戻し、この時嘉兵衛が火車を突き刺した槍が今も伝わっているという。
真田幸村(さなだ・ゆきむら)
信濃の人(1567~1615)
真田昌幸(まさゆき)の次男。大坂夏の陣の奮戦ぶりから「真田日本一の兵」とうたわれ、創作で盛んに取り上げられたため、戦国時代でも屈指の人気を誇る。
「幸村」の名は江戸時代の軍記物語が出典であり、存命の頃の史料には見当たらず、本名は真田信繁(さなだ・のぶしげ)とするのが正しい。
が、あまりに幸村の名が広まりすぎたため、現在では家系図もさかのぼって幸村と改められているという。
祖父・真田幸隆(ゆきたか)、父・真田昌幸はともに武田家に仕えた。特に真田幸隆は軍師格であった。
真田昌幸は三男であり、武藤家に養子に出されていたが、長篠の戦いで二人の兄が戦死したため、真田家に戻り家督を継いだ。
1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされると、真田家は信長に降伏し所領を安堵された。
だが間もなく信長も暗殺されると、武田家の旧臣が蜂起し、織田勢力を駆逐したため、信濃や上野は空白地となり、徳川、北条、上杉の三家がにらみ合いとなった。結局、まず他国侵略を嫌う上杉家が撤退し、北条家も真田軍のゲリラ戦に手を焼いて兵を引いたため、信濃は徳川家の支配下に置かれた。
しかし1585年、真田家は独立を果たすと、信長の跡を継ぎ台頭した羽柴秀吉方についた上杉家に帰属した。このとき、年若い幸村は人質として上杉家に預けられた。
やがて幸村の身柄は秀吉の居城・大坂城に移された。そこで目をかけられ豊臣家の重臣・大谷吉継(おおたに・よしつぐ)の娘をめとり、さらに豊臣の姓を与えられて従五位下左衛門佐に叙任された。
だがこの頃の幸村の足跡は、人質生活のせいかほとんど伝わっていない。
1600年、すでに秀吉は亡く、頭角を現した徳川家康と、豊臣家を守らんとする石田三成との間で決戦の幕が開かれた。
幸村は父とともに西軍(三成方)に加勢し、家康の腹心・本多忠勝の娘(稲姫)をめとっていた兄の真田信之(は東軍(家康方)につき、真田家は二つに分かれて争うこととなった。
東軍は東海道と中山道の二路から西上したが、中山道を進む徳川秀忠軍に対し、真田家は居城の上田城に立てこもって応戦した。
兵力差は10倍以上あったが、城を攻め落とすことはできず、甚大な被害を出したうえに関ヶ原の本戦に間に合わず、家康に叱責されることとなった。
しかし石田三成は大敗し、西軍に加わった諸大名はことごとく処罰された。
幸村父子も本来ならば切腹を命じられるところだったが、真田信之や本多忠勝のとりなしにより、高野山へ蟄居で許された。
1614年、徳川家との仲が険悪となり、討伐を恐れた豊臣家は多くの浪人を集めた。
すでに父・真田昌幸を失っていた幸村のもとにも使者が来ると、幸村は山を脱出し、真田家の旧臣を集めて大坂城に入った。
真田軍は旧主・武田家の名将・山県昌景(やまがた・まさかげ)にあやかってか武装を赤で統一し「真田の赤備え」とうたわれた。
その冬、ついに徳川家との間で戦端が開かれると、幸村は大勢を占める籠城策に反対し、京を制圧し近江まで打って出る強硬策を提案した。しかし多くの浪人たちが支持したものの、結局は籠城策と決まった。
すると幸村は大坂城の唯一の弱点とされる三の丸への布陣を自ら望み、「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築くと、攻め寄せた徳川軍に大打撃を与え、幸村の名は一躍広まった。
業を煮やした家康は攻城戦を諦めると、夜間に大砲で天守閣を狙い撃ち、鬨の声を挙げさせて豊臣軍を眠らせないようにした。
豊臣秀頼(とよとみ・ひでより 秀吉の子で豊臣家の当主)の母・淀君(よどぎみ)ら女官は戦々恐々となり、たまらず和睦を申し出た。
家康は大坂城の堀を埋め立て、真田丸を取り壊すことを条件に和睦を受け入れた。
翌1615年、再び徳川家と豊臣家の間が緊張すると、家康は幸村の叔父・真田信尹(のぶこれ)を派遣し、十万石で寝返るよう幸村を説得させた。
断られると今度は信濃一国(四十万石)を与えると言ったが、幸村は「私が十万石では不忠者にならぬが、一国なら不忠者になるとお思いか」と拒絶した。
そして大坂夏の陣、堀を失い籠城策をとれない豊臣軍は野戦に出向かざるを得なかった。
幸村は毛利勝永(もうり・かつなが)、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)らとともに先陣を務めたが、濃霧のために行軍の足が鈍り、その間に突出した後藤又兵衛は戦死してしまった。
幸村は責任をとって斬り死にしようとしたが、毛利勝永に「ここで死ぬよりも、秀頼様の前で華々しく死のう」と説得され、損害を恐れ及び腰の伊達政宗軍を返り討ちにすると「関東には百万の兵がいても、男は一人もいないのだな」とあざ笑い、悠々と撤退した。
兵力差は圧倒的で、豊臣方の主だった武将も次々と討ち取られた。
幸村は起死回生の策として、秀頼の出陣を乞うたが、淀君や側近の反対によって阻まれた。
ならばと毛利勝永とともに挟撃して家康の本隊を孤立させ、明石全登(あかし・てるずみ)に本隊を狙わせようとしたが、それも毛利隊の前衛が勝手に動いてしまったため、失敗に終わった。
幸村は「戦はこれで終わった。あとは家康の首だけを狙い、快く戦おう」と言うや、家康の本陣に突撃した。
毛利、明石両隊もそれに加わると、あまりに大軍過ぎて連携に難のあった徳川方は対応しきれず、真田勢の数倍の旗本は蹴散らされてしまい、家康の馬印は倒され、二度も自害を覚悟するほどだった。
同時に徳川秀忠の本隊も襲われ、身辺警護を務める柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)が数人を斬り伏せてどうにか退けたほどの窮地に陥れた。
ちなみに家康の馬印が倒されたのは、武田信玄との三方ヶ原の戦い以来のことである。
しかし家康の旗本が態勢を立て直すと、もはや幸村に勝機はなく、負傷兵の手当てをしているところを襲われ、首を取られた。享年49。
この奮闘で幸村ら真田軍は「真田日本一の兵」とうたわれることとなった。
家康は後に「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい」と称賛し、諸将は武勇にあやかろうと、幸村の遺髪を奪い合ったという。
幸村の死の翌日、大坂城は落ち豊臣家は滅亡した。
だが幸村は生き延び、豊臣秀頼らをつれて密かに脱出したという噂がまことしやかにささやかれた。
わずかな手勢で天下人の家康を追い詰めた幸村の勇姿は、その後も「真田十勇士」などで民衆の心に残り、現在もなおファンを増やし続けている。
~幸村の人物像~
兄の真田信之によると、幸村は武将らしからぬ柔和で穏やかな性格で、いつも物静かにして怒ることがなく、大坂の陣ではあまりに泰然自若としていたため「浪人の分際で生意気だ」と罵られたほどだという。
また後藤又兵衛の家臣の記録では、体格は小柄であったとされる。
幸村の活躍は江戸時代の早くから講談などで盛んに取り上げられた。敵対した徳川政権も「主君に殉じた忠臣」を描くのを良しとして、それを容認した。
うがった見方をすれば、関ヶ原の戦いの際に徳川秀忠が敗れたことや、大坂の陣でも危機に陥ったことを、幸村が並外れて勇猛だったという理由を付けることで、言い訳としたのだろう。
なお巷に膾炙される大坂の陣での幸村の戦功には、毛利勝永のものが多く含まれており、物語上では二人分の戦功がほとんど幸村のものとなってしまっている。
毛利勝永は現在でも無名で、早くも江戸時代中期の文人にも「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」とその不憫さを哀れまれている。
真田軍は「赤備え」と言われる赤で統一した装備で知られるが、幸村自身も朱色に塗った十文字槍をあやつった。
また真田家の家紋であり旗印としても用いられた「六文銭(六連銭)」は非常に著名である。
これは三途の川の渡し賃で、棺に入れられる六文の銭のことで、転じて命を惜しまず戦い抜くという意味である。
真田昌幸(さなだ・まさゆき)
信濃の人(1547~1611)
武田家に仕えた真田幸隆(ゆきたか)の三男。真田信之・幸村兄弟の父。
7歳で臣従する武田家への人質となり、早くから武田信玄に才を見込まれた。
後に信玄の母方の一族である武藤家の養子となり武藤喜兵衛(むとう・きへえ)を名乗った。
川中島の戦いにも参戦した、信玄の嫡子・武田勝頼(かつより)に嫡子が生まれると重臣たちと並び祝賀の使者として送られた、などとされるがいずれも確かな史料はない。
また三方ヶ原の戦いでは敗走した徳川軍への追撃に反対したという。
1574年、父が没すると長兄の真田信綱(のぶつな)が家督を継いだ。
だが翌1575年、長篠の戦いで信綱と次兄の真田昌輝(まさてる)が揃って討ち死にしたため、昌幸は真田家に戻り家督を継いだ。
信玄もすでに亡く、跡を継いだ武田勝頼は昌幸ら父の代からの旧臣を厚遇しなかった。
1582年、勝頼も織田軍に敗れて没すると、昌幸は織田信長に降り本領安堵された。しかし同年、信長が本能寺で討たれ甲斐・信濃の旧武田領から織田勢力は撤退し、周囲の徳川・上杉・北条家は激しい領土争いを始めた。
昌幸もこの機を逃さず、武田家の残党を集め勢力を拡大し、織田軍の撤退に協力し恩を売ったり、徳川・上杉・北条の傘下を転々とした末に徳川家のもとに落ち着いた。
1583年には上田城を築き居城に定め、翌1584年、小牧・長久手の戦いが起こると家康の目が西に向いた隙に版図を広げた。
領土を奪われた北条家は同盟者の家康に返還を求めたが、昌幸は代替の領地をもらわなければ承諾できないと断り、ついには次男の真田信繁(幸村)を人質に出し上杉家に鞍替えした。
激怒した家康は鳥居元忠(とりい・もとただ)ら7千の兵に上田城を攻めさせたが、昌幸は1/3足らずの2千の兵力で徳川軍をさんざんに打ち破った。徳川軍の被害は死傷者2千にも及び、この大勝により真田家の名は一躍全国に轟いた。
1585年、昌幸は信繁を上杉家の盟主である豊臣家に送り、豊臣秀吉に臣従した。
家康も豊臣家に膝を屈すると、真田家は秀吉の命により徳川家の与力大名として付けられた。
1590年、北条家が真田領の城を落としたのを契機に、秀吉は全国の大名に小田原征伐を命じた。昌幸は上野攻略を任されると「上野国中にことごとく放火つかまつる」と応じ、北条方の城を次々と奪取。南下し石田三成と合流すると忍城を囲んだが、甲斐姫らの抵抗により落とせなかった。
その後は所領を安堵され、信繁にも別に領地を与えられるなど秀吉からの信頼厚く、関東に移封された徳川家への睨みを利かした。
1598年、秀吉が没すると家康が台頭した。
1600年、それに反発する上杉家が公然と反旗を翻し、家康が討伐に向かうと石田三成が旧豊臣方を結集し蜂起した。
昌幸はかつて三成から「表裏比興(卑怯)の者」と評され(現代では卑怯と書くが老獪・策士という表現に近い)ていたものの縁戚にあり、また家康との長年の宿怨から西軍につくことを決めた。
だが徳川家の重臣・本多忠勝の娘(稲姫)をめとっていた長男の真田信幸(のぶゆき)は東軍につくよう命じた。これは東西両軍に分かれて家名存続を図るための方策でもある。
昌幸は上田城に帰る途中、信幸の治める沼田城に立ち寄り、稲姫に「孫の顔が見たい」と申し出た。稲姫は昌幸が城を奪うつもりだと見抜くと、逆に真田一族を歓待と称して城内に招き人質に取ったため、昌幸は「さすが本多忠勝の娘だ」と笑って引き返した。
なお稲姫は子供を連れてその後を追い、孫の顔は見せてやったと伝わる。
東軍は二手に分かれて進撃し、3万8千を率いる家康の後継者・徳川秀忠は上田城に差し掛かると信幸を送り昌幸に降伏を促した。
だが昌幸はいったんは受け入れる振りで時間を稼ぐと、土壇場になってから約束を反故にした。
激昂した秀忠は軍師・本多正信(ほんだ・まさのぶ)の忠告を無視して全軍に城を攻めさせたが、昌幸の備えは万全で、時には籠城を、時には奇襲を仕掛けと翻弄し、徳川方の史料にさえ「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで記される大損害を与えた。
家康が送った上洛を促す使者が利根川の増水で足止めされ秀忠への連絡が遅れたことや、また戦力温存のために当初から本戦には遅れて行く予定だったともされるが、ともあれ昌幸の抵抗が秀忠の進軍を遅れさせたことは疑いない。
西軍敗退の連絡を受けてもなお真田家は抗戦を続けたが、ついに諦め降伏開城した。
家康は昌幸・幸村父子に死を命じたが、信幸と本多忠勝の嘆願により、高野山への蟄居と引き換えに助命し、旧真田領は信幸に与えられた。
昌幸は高野山に発つ際、号泣しながら「家康をこのような目にあわせてやるつもりだったのに」と信幸に語ったという。
高野山での暮らしは困窮していたが、真田信之と改名した長男からの援助もあり、また昌幸・幸村や家臣の屋敷を別々に造られるなど他の流人よりは厚遇され、京や紀伊への外出も監視付きで許されていた。
しかし10年あまり続いた配流生活は昌幸の気力・体力を次第に奪っていき、病を得て1611年に65歳で没した。
1614年、大坂冬の陣で家康は、豊臣家に真田軍が加わったと聞くと「親の方か? 子の方か?」と震えながら尋ねたとされる。
謀将・真田昌幸の死をそれすらも謀略の一環と疑っており、無名の幸村の方だと聞くと安堵したという。
だが大坂の陣で幸村は父に勝るとも劣らない謀略と采配で「真田日本一の兵」とうたわれるほどの活躍を見せ、家康の心胆を寒からしめるのだった。
武田勝頼(たけだ・かつより)
甲斐の人?(1546~1582)
平安時代から続く甲斐武田家の最後の当主。武田信玄の四男。
母の生家の諏訪家は武田家に滅ぼされており、旧臣に対する懐柔策として信玄は諏訪家から側室を迎えたと思われる。
庶子ということもあり幼少期の記録はほとんど残されていない。
1562年、諏訪家を継ぎ諏訪勝頼(すわ・かつより)を名乗る。
初陣で敵将を自ら組み伏せて討ち取り、その後も主要な戦のほとんどに参戦しては一騎打ちをたびたび行うなど武勇に優れた。
1565年、信玄の嫡子・武田義信(よしのぶ)の家臣が信玄暗殺を企んだ罪で処刑され、義信も自害に追い込まれた。
次男の海野信親(うんの・のぶちか)は生まれつき盲目で出家しており、三男は夭折していたため四男の勝頼が代わって嗣子に立てられた。
1573年、信玄が西上作戦のさなかに急死すると、勝頼は武田姓に復し家督を継いだ。だが信玄の遺言で数年はその死を伏せ、信玄の隠居による家督相続と触れ回ったという。
信玄の死により窮地を脱した織田信長・徳川家康は反撃に転じ、武田家も加わっていた「信長包囲網」を打ち破った。
対する勝頼も積極的に勢力拡大に努め、東美濃や東遠江に版図を広げた。
1575年、勝頼は1万5千の大軍で、徳川家に寝返った奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の長篠城を囲んだ。
だが信昌はわずかな兵で持ちこたえ、ついに信長自ら率いる織田・徳川連合軍3万8千が設楽原に到着した。
兵力差と、連合軍が設楽原に築いた強固な陣に危機を感じた重臣らは撤退を進言したが、勝頼はそれを退け正面から戦いを挑んだ。
しかし武田軍は連合軍の防御壁を破れず、馬場信春(ばば・のぶはる)、山県昌景(やまがた・まさかげ)、原昌胤(はら・まさたね)、真田信綱(さなだ・のぶつな)・昌輝(まさてる)兄弟、土屋昌次(つちや・まさつぐ)、三枝守友(さえぐさ・もりとも)ら多くの重臣が戦死した。その多くは撤退戦のさなかに討ち取られ、武田軍の退路に沿って点々と戦死地が記録されている。
死傷者1万人とも言われる壊滅的な惨敗を喫した武田家は以降、劣勢を強いられる。
勝頼は北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の娘を後室に迎えるなどし北条・上杉との三国同盟を狙った。
1578年、上杉謙信が没すると氏政の弟で謙信の養子になっていた上杉景虎(うえすぎ・かげとら)と、やはり養子で謙信の甥・上杉景勝(かげかつ)との間で後継者争いが起こった。
勝頼は北条家に要請され景虎を支援する兵を出したが、景勝に上杉領の割譲を条件に和睦を申し込まれるとそれを受諾し、兵を引き上げ中立の立場をとった。
結果、勝利した景勝が後継者の地位をつかみ、景虎は自害に追い込まれたため北条家は激怒し、同盟を破棄すると徳川家と結び、武田家を挟撃した。
勝頼は妹を景勝に嫁がせ上杉家と同盟し、さらに北条家の背後を脅かす佐竹・里見家らと連携し対抗した。
織田家との関係修復のため、信玄時代に人質にとっていた信長の五男・織田勝長(かつなが)を返還したが、信長はすでに武田家征伐の準備を進めていたためこれを拒絶した。
1581年、徳川軍に包囲された高天神城を勝頼は見殺しにし、岡部元信(おかべ・もとのぶ)ら城兵は皆殺しとなった。
家康は勝頼の無慈悲さを強調するためあえて降伏を許さなかったとされ、事実これにより勝頼の名は地に落ちた。
勝頼は侵攻に備え防備を整えたが、これも労役を強いられた国人衆の反発を招き、織田・徳川方への寝返りが続発した。
1582年、木曽義昌(きそ・よしまさ)も寝返ると勝頼は激怒し討伐軍を送り込んだが、大雪に道を阻まれ、地の利に勝る木曽軍に大敗を喫した。
これを好機と見た織田・徳川・北条連合軍は一斉に武田領に攻め込み、さらに折悪しく浅間山が噴火した(東国で異変が起こる前兆とされていた)ため、武田軍は浮足立った。
勝頼の叔父・武田信廉(のぶかど)はろくに抵抗もせず要害を捨て逃亡、下条家は家老が当主を追放して織田軍に降伏し、小笠原家・依田家らも相次いで寝返り、ついには一族の重鎮だった穴山信君(あなやま・のぶきみ)まで裏切ると、武田軍は戦わずして崩壊した。
抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟・仁科盛信(にしな・もりのぶ)と母の実家の諏訪頼豊(よりとよ)くらいで、特に諏訪頼豊は勝頼から冷遇され、家臣からはこの機に諏訪家を再興するよう促されていたにも関わらず、果敢に木曽軍に戦いを挑み討ち死にしたという。
勝頼は多大な労役を課し国を傾けてなお未完成だった新府城に火を放ち、重臣・小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)のもとへ逃亡した。
だが信茂もまた織田家に寝返り退路を塞がれたため、勝頼は天目山で自害を遂げた。享年37。
その後、江戸時代になり武田家は勝頼の兄・海野信親の子孫によって高家(貴族)として再興された。
鬼小島弥太郎(おにこじま・やたろう)
越後の人(??~??)
上杉家。本名は小島貞興(こじま・さだおき)。
鬼神のような勇猛ぶりから鬼小島の異名を取った。しかし上杉家の記録にしか名前が見えず架空の人物と考えられる。
幼少の頃から上杉謙信に仕えた。謙信が上洛した際、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)が豪傑で知られる謙信を試そうと、大猿をけしかけると、即座に弥太郎が殴り殺してしまった。
また武田信玄のもとへ使いした時、信玄は評判の鬼小島の胆力を試そうと猛犬をけしかけた。犬は弥太郎に噛み付いたが、彼は平然とそのまま使者の務めを果たすと、片手間に犬を叩き殺して去っていったという。
さらに武田軍と戦った時、弥太郎は猛将・山県昌景(やまがた・まさかげ)と一騎打ちした。
だがそのさなかに信玄の子・武田義信(たけだ・よしのぶ)が窮地に陥るのを見ると、昌景は「主君の御曹司を救うため勝負を預けたい」と願い出た。弥太郎は快諾して槍を引いたため、昌景は「花も実もある勇士」と彼を讃えた。
小島弥太郎戦死の地として新潟県長岡市の天神山に石碑が建つが、その没年は1547年説、1560年説、1582年説と諸説あり、討ち取った相手も無名の兄弟から柴田勝家まで幅広い。
村上義清(むらかみ・よしきよ)
北信濃の人(1501~1573)
家督を継いだ時、村上家は信濃の北部から東部へかけて大きな勢力を築いていた。
義清は自ら先陣を切って戦ったと伝わるほど勇猛で、また長槍による槍衾戦法を得意とし、長槍戦術の創始者として斎藤道三(さいとう・どうさん)とともに挙げられている。(余談だが道三を手本にした織田信長の槍衾戦法が一般的には最も著名で、信長が創始者と勘違いされることも多々ある)
1548年、上田原の戦いで武田晴信(後の信玄)を破った。この戦いで武田家は板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)ら多くの重臣を失った。
1550年、義清が高梨家を攻撃した隙に武田軍は砥石城を襲ったが、義清はすかさず高梨家と和睦すると反転し、武田軍を大いに打ち破った。武田軍は横田高松(よこた・たかまつ)らが戦死し、信玄の生涯で最も大敗したため後に「砥石崩れ」と呼ばれた。
以降、信玄は正面からの戦いを避け、真田幸隆(さなだ・ゆきたか)に村上家の調略を命じた。
翌1551年に砥石城を奪われたのを皮切りに家臣が次々と寝返り、1553年にはついに抗し切れず、領地を捨て越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとへ落ち延びた。
北信濃への侵攻の名目を得た謙信は南下を開始し、武田軍と川中島で幾度にもわたり激突した。
義清は上杉家に仕え、1561年、第四次川中島で信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)を討ち取ったとも言われる。
1573年、義清は73歳で没した。くしくも仇敵である信玄も同年に急逝した。
嫡子は謙信の養子に迎えられ山浦国清(やまうら・くにきよ)と名乗り、上杉家でも第2位の高位に上り詰めたが、1598年、上杉家が会津へ移封されると歴史から姿を消しており、出奔したと思われる。
上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)
越後の人(1556~1623)
上杉家の当主。父は長尾政景(ながお・まさかげ)、母は上杉謙信の姉・綾御前。
1564年、父が謎の溺死を遂げると叔父・謙信の養子となった。
非常に無口で感情を表に出さず、ある時、飼っていた猿が景勝のものまねをしているのを見て笑ったのを除き、ただの一度も家臣に笑みを見せなかったという。
将兵もまた景勝に準じて統制厳しく、行軍中も一言も発せずただ人馬の足音だけが響いていたと伝わる。
長じると一門衆の筆頭格となり、謙信からも後継者に目されていたようだが1578年、謙信が急死すると北条家から人質兼養子に迎えていた上杉景虎(かげとら)との間で跡目争いが巻き起こった。
景虎には北条家と同盟を結ぶ武田家が味方し、国境近くまで進軍してきたが、景勝は黄金の譲渡と武田勝頼(かつより)の妹をめとることを条件に武田家と和睦。
景虎は後ろ盾にしていた謙信の養父・上杉憲政(のりまさ)と嫡子が暗殺され、正室で景勝の姉も自害すると拠り所を失い、1579年に自害した。
景勝は名実ともに上杉家を継ぎ、国人衆は景虎方はもちろん自分に味方したものまで粛清し、実家の長尾家の権力を強めた。
だが1581年、景勝方として奮闘したもののわずかな恩賞しか与えられず、他の国人衆も粛清され不満を抱いた新発田重家(しばた・しげいえ)が織田・伊達家の援助を得て反乱した。
さらに柴田勝家率いる4万の織田軍が侵攻、翌年には同盟者の武田家が滅亡し、ついに越中も陥落した。
景勝は盟友の佐竹義重(さたけ・よししげ)へ「良い時代に生まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑み、滅亡することは死後の思い出である」と語るほどの窮地に追い詰められたが、織田信長が本能寺で討たれたため戦況は一変。織田軍は全軍撤退し、逆に北信濃へ侵攻し北条家と領土を分けあった。
新発田重家の反乱鎮圧には大きく手間取り多くの将を討たれ、景勝自身も危うく戦死しかけたが、織田政権を掌握した羽柴秀吉によしみを通じ、徐々に版図を広げた。
1587年には新発田重家を破り越後を再統一。1589年には佐渡と出羽の一部を切り取り、90万石に勢力は拡大した。
腹心・直江兼続と二頭政治を布き、文禄の役では秀吉の名代として参陣し、1595年、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が隠居すると後任の五大老に任じられた。
1598年、蒲生氏郷(がもう・うじさと)が没すると関東の徳川家康、奥州の伊達政宗への押さえとして会津120万石へ移封し、豊臣政権での地位は安泰かと思われた。
だが秀吉が逝去すると、兼続と懇意だった石田三成に協力し、徳川家康と対立。
1600年、景勝は領内の築城・改修を独断で進めたため家康が問責の使者を送ると、兼続は「直江状」として著名な挑発的な書状を返し、家康を激怒させた。
家康は全国に号令を発し会津征伐の兵を挙げると、その隙をつき石田三成が豊臣家の名代として挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発。
景勝は家康方の東軍に与した伊達政宗や最上義光(もがみ・よしあき)と戦い、最上方の長谷堂城を大軍で包囲するが志村光安(しむら・あきやす)の防戦により落とせず、関ヶ原で三成ら西軍が大敗すると撤退。やむなく家康に降伏した。
翌1601年、景勝は家康の次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)のとりなしを得て謝罪し、家名存続は許されたが出羽米沢30万石へと大幅に減封された。しかし景勝は家臣を全く解雇しなかったため、30万石の身で120万石の家臣を召抱えた米沢藩はしばらく財政難が続くこととなった。
以降は徳川家に従い領内の政治に励み、米沢を大いに発展させた。
1614年からの大坂の陣にも徳川方として参戦し事なきを得て、上杉家は幕末まで続いた。
~~前田慶次との関係~~
天下一の傾奇者・前田慶次が仕えた唯一の人物が景勝である。
ある時、秀吉が催した宴席で慶次は余興として猿面を踊りだし、居並ぶ諸大名の膝の上に座り猿の真似をする暴挙に出た。
秀吉の面前でもあり、余興に怒るのも無粋と諸大名は我慢していたが、慶次は景勝にだけは絡もうとしなかった。後に理由を聞かれると「景勝殿は威風凛然としていてどうしても座ることができなかった。天下広しといえども真に主君と頼めるのは景勝殿しかいない」と語ったという。
その後、慶次は景勝に仕え、長谷堂城の戦いでは撤退する上杉軍の殿軍を務め、奮戦して無事に景勝や旧友の直江兼続を逃がした。
上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
越後の人(1530~1578)
越後の大名。本名は上杉輝虎(てるとら)で謙信は法号。
生涯でほとんどの戦に勝利し「軍神」や「越後の龍(虎)」の異名で知られる。
越後守護代・長尾為景(ながお・ためかげ)の四男に生まれる。幼名は虎千代(とらちよ)。姉に綾御前がいる。
父の為景は越後守護を自害に追い込み、関東管領を討ち取るなど勢力拡大に勤しんだが、旧臣や一族の反発を招き越後統一にまでは至らなかった。
1536年、為景は隠居すると息子の長尾晴景(はるかげ)に家督を譲り、虎千代を林泉寺で出家させた。父に疎まれていたとも伝わる。
林泉寺の住職・天室光育(てんしつ・こういく)に学び、虎千代は軍学に特に興味を示した。2メートル四方もある城の模型を造り図上演習に熱中し、修行を疎かにしたため天室光育は「虎千代殿に僧侶は無理」とさじを投げ、寺から出された。
1542年、為景が没するとその隙をついて敵対勢力が押し寄せ、虎千代らは甲冑姿で葬儀を行ったという。
晴景は才気に乏しく、越後守護の上杉定実(さだざね)も復権し、日に日に長尾家の力は衰えていた。
虎千代は翌年に元服すると長尾景虎(かげとら)と名乗り、戦に出るようになった。
当時、上杉家は伊達家から婿養子を迎えようとしていたが、反対派も根強く内乱状態に陥っていた。反乱軍は15歳の景虎を侮り城下に攻め寄せたが、景虎は伏兵を敵の背後に回すと挟撃を仕掛け、見事に初陣を飾った。
1545年、黒田家が反乱を起こしたが、景虎は兄を殺されながらも反撃し滅亡に追いやった。
兼ねてから晴景に不満を抱いていた国人衆は武勇に優れた景虎を推し、晴景に退陣を迫るようになり兄弟の仲は険悪化した。
越後を二分する内乱に発展しかけたが1548年、上杉定実が調停し晴景に景虎を養子に取らせたうえで隠居させ、ここに19歳の越後守護代・長尾景虎が誕生した。
1550年、上杉定実も没すると景虎は22歳にして名実ともに越後を統一した。かつて晴景派についた長尾政景(まさかげ)が反乱を起こすもすぐに鎮圧し、景虎の姉婿(綾御前の夫)に当たる政景は赦され、以降は家老として重きを置かれた。
1552年、関東管領・上杉憲政(のりまさ)は北条氏康に上野国を奪われ景虎のもとへ亡命した。
景虎は憲政を旗印に攻め込み、北条幻庵(ほうじょう・げんあん)を破り上野を奪回。さらに武田信玄に領国を奪われた信濃守護・小笠原長時(おがさわら・ながとき)や村上義清(むらかみ・よしきよ)が庇護を求めると、信濃にも侵攻。
武田方の城を次々と落としたが、信玄が前線を下げ防衛線を敷くと、上洛の予定があった景虎は深追いせずに兵を引き上げた。世に言う「第一次川中島の戦い」である。
上洛した景虎は後奈良天皇や将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)に拝謁すると、天皇からは剣や盃とともに「朝敵を討伐せよ」と勅命を賜り、高野山にも詣でたという。
1554年、第二次川中島の戦いも有利な条件で和睦を結び兵を引き上げたが翌年、家臣の内紛や国人衆の争いの調停に嫌気が差した景虎は、突如として出家を宣言し、高野山へ向かった。
旧師の天室光育や長尾政景の説得で翻意したが、大熊朝秀(おおくま・ともひで)がその機に乗じて反乱するなど混乱を招いた。
1557年、武田信玄は和睦を破棄して長尾領に攻め込んだ。
激怒した景虎が反撃に転じると信玄は決戦を避け、背後へ兵を回したが決定打に欠け、小競り合いで終わった。第三次川中島である。
信玄は以降、雪に阻まれ景虎が兵を出せない冬期を狙って、じわじわと長尾領に侵攻していく。
1560年、今川義元が桶狭間で戦死し武田・今川・北条の三国同盟にほころびが生じると、景虎はその隙をつき北条家を攻めた。
関東管領・上杉憲政の名の下に大号令を発すると反北条勢力が集結し10万もの大軍に膨れ上がった。
さしもの北条氏康もたまらず小田原城に籠城したが、景虎にも天下一の名城を落とすことは出来ず、また信玄が川中島に迫り、長期の包囲戦で兵糧不足に陥った佐竹家ら連合軍の諸大名も次々と離脱していき、やむなく景虎は撤退した。
また包囲戦のさなかに景虎は上杉憲政から関東管領と山内上杉家の家督を譲られ、上杉政虎(まさとら)と改名した。(憲政が亡命した時点で管領職の移譲や養子縁組はなされたとする説もある)
1561年、第四次川中島ではこれまで決戦を避けてきた両雄がついに激突。武田軍の采配を読んだ政虎は信玄の弟・武田信繁(のぶしげ)や山本勘助(やまもと・かんすけ)ら名だたる敵将を討ち取った。
また武田方の史料には政虎が自ら信玄の本陣に切り込み、一太刀浴びせるも信玄はそれを軍配で受け止めた、と記されている。
しかし上杉方の史料には見当たらず、もし本当に政虎が切り込んだならば大いに喧伝してしかるべきで、察するに本陣まで侵入を許した武田方が、かの政虎に切り込まれたと脚色することで面目を保とうとした、といったところだろうか。
また大勝した上杉軍も無傷では済まず、消耗した隙をついた北条軍の反抗により武蔵の国人衆が次々と寝返り、また上杉方につき箕輪城を守り「上州の黄斑」とうたわれた猛将・長野業正(ながの・なりまさ)が病没すると上野方面でも武田軍が優勢となり、前線の後退を余儀なくされた。
同年12月、政虎は将軍・足利義輝から一字拝領し上杉輝虎(てるとら)と改名した。
1562年、越中の神保家が反乱し、それにかかりきりになった隙に武田・北条連合軍は武蔵の松山城を囲んだ。
輝虎は雪中行軍で救援に急いだが間に合わず、武蔵の拠点である松山城を翌年に失った。
しかし雪解けを迎えるや輝虎は猛反撃に転じ、下野、下総、常陸に侵攻し結城家、成田家らを降し、再三にわたり背いた佐野昌綱(さの・まさつな)もようやく屈服させた。なお彼らは輝虎が撤退すれば北条・武田方に、輝虎が侵攻すれば上杉方へとその後も目まぐるしく所属を変え、狡猾に立ち回っている。
1564年、第五次川中島はにらみ合いに終始し、これを最後に信玄は信濃統一を諦めた。上杉家も北信濃は抑えたが、信玄に奪われた村上家、高梨家の旧領を回復するには至らず、五度に及んだ川中島の戦いは痛み分けに終わったと言える。
1565年、親交厚かった足利義輝が三好三人衆らによって暗殺された。それに気落ちしたかのように関東での上杉軍は劣勢に立たされていく。
翌1566年、同盟を結んだ里見家が北条家に攻められると、輝虎はそれを救援すべく下総に侵攻し千葉家の臼井城を囲んだ。
だが軍師・白井浄三(しらい・じょうさん)は巧みな指揮と、取り付いた上杉軍を城壁ごと崩す奇計でさんざんに打ち破った。輝虎自ら采配を振るいながら惨敗を喫したこの戦いを上杉方は史料に残さず、一説には5千以上の死傷者を出したという。
この敗北を機に関東の諸大名は続々と北条方に寝返り、北条高広(きたじょう・たかひろ)、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)ら重臣も一時離反し、また長野業正の没後も抵抗を続けていた箕輪城も武田家に落とされ、実質的な関東での領土は東上野を残すだけとなった。
1569年、三国同盟を破棄し今川領に攻め込んだ武田家と断交した北条家は、宿敵の上杉家に和睦を持ちかけた。
輝虎ははじめ渋ったが、この頃には越中や出羽へ勢力を伸ばしており、また関東では劣勢で北条家には拠点の関宿城を囲まれていたため、和睦を承諾した。
一方で長年にわたり上杉家に協力した関東の諸大名は反感を抱き、里見家や佐竹家は敵対する姿勢を見せた。
1570年、北条氏康の七男を養子に迎え、初名を与え上杉景虎(かげとら)と名乗らせ、自身は法号「不識庵謙信」を称した。
だが蜜月は短く1571年、北条氏康が死去すると跡を継いだ北条氏政(うじまさ)は同盟を破棄し武田家と和睦した。
1572年、武田信玄は一向一揆を扇動し、謙信を越中に釘付けにし後顧の憂いを断つと上洛戦を開始した。
三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝した武田軍が迫ると、織田信長は謙信に同盟を持ちかけた。
信玄は1573年に急逝したものの、一向一揆は加賀・越中の両国を巻き込んで拡大の一途をたどり、鎮圧しても再蜂起を繰り返したため、業を煮やした謙信は越中の制圧を決断した。
北条家は手薄になった上野、下総に攻め寄せ、進撃はなかなか進まなかったが1576年、織田信長と敵対する本願寺を率いる顕如(けんにょ)と和睦し、長年悩まされてきた一向一揆を逆に味方につけた。
以降、謙信は足利義昭(よしあき)の敷いた「第二次信長包囲網」にも加わり、再び上洛を目指すことになる。
同年、椎名家を打ち破り越中を制圧した謙信はさらに能登へ侵攻した。
難攻不落の七尾城を攻めあぐんだが、守る畠山家は幼い当主が病没すると実権を握っていた家老らに不協和音が生じ、謙信の調略を受けて同士討ちを始め翌1577年に陥落。能登も上杉家の支配下となった。
さきに内通する畠山家の家老から救援要請を受けた信長は、柴田勝家を総大将に羽柴秀吉、滝川一益(たきがわ・かずます)、丹羽長秀(にわ・ながひで)、前田利家、佐々成政(さっさ・なりまさ)らそうそうたる面子を送り込んでいた。
すでに七尾城は落ちていたが勝家はそのことを知らずに上杉軍との開戦を決断。意見の対立した秀吉は兵を引き上げたが構わず進軍し、手取川を渡ったところでようやく七尾城の陥落を知った。
さらに謙信自ら率いる大軍が目の前まで迫っており、勝家は泡を食って撤退を指示したが渡河に手間取るうちに追撃を受け大敗した。
1577年、居城に戻った謙信は遠征(上洛戦あるいは関東への再進撃か)のため大号令を発したが翌1578年3月、出陣の6日前に厠で倒れ急死した。享年49。
遺体は土葬せず甲冑を着せ太刀を帯びた姿で甕に収め漆で密封し、明治維新を迎えるまで上杉家居城の本丸に安置されたという。
死因は脳溢血と見られ、大変な酒豪で味噌や梅干を肴に飲んでいたという逸話から不摂生もうかがえ、また現在は散逸した肖像画には自分の後ろ姿として盃を描かせ「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。
妻帯せず養子を4人迎えていたが、生前に後継者を決めておらず上杉景虎と、甥(綾御前と長尾政景の子)の上杉景勝(かげかつ)との間で激しい跡目争いが勃発した。これにより国力の衰退を招き、後の上杉家没落の一因になったと言わざるを得ない。