三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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村上義清(むらかみ・よしきよ)
北信濃の人(1501~1573)
家督を継いだ時、村上家は信濃の北部から東部へかけて大きな勢力を築いていた。
義清は自ら先陣を切って戦ったと伝わるほど勇猛で、また長槍による槍衾戦法を得意とし、長槍戦術の創始者として斎藤道三(さいとう・どうさん)とともに挙げられている。(余談だが道三を手本にした織田信長の槍衾戦法が一般的には最も著名で、信長が創始者と勘違いされることも多々ある)
1548年、上田原の戦いで武田晴信(後の信玄)を破った。この戦いで武田家は板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)ら多くの重臣を失った。
1550年、義清が高梨家を攻撃した隙に武田軍は砥石城を襲ったが、義清はすかさず高梨家と和睦すると反転し、武田軍を大いに打ち破った。武田軍は横田高松(よこた・たかまつ)らが戦死し、信玄の生涯で最も大敗したため後に「砥石崩れ」と呼ばれた。
以降、信玄は正面からの戦いを避け、真田幸隆(さなだ・ゆきたか)に村上家の調略を命じた。
翌1551年に砥石城を奪われたのを皮切りに家臣が次々と寝返り、1553年にはついに抗し切れず、領地を捨て越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとへ落ち延びた。
北信濃への侵攻の名目を得た謙信は南下を開始し、武田軍と川中島で幾度にもわたり激突した。
義清は上杉家に仕え、1561年、第四次川中島で信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)を討ち取ったとも言われる。
1573年、義清は73歳で没した。くしくも仇敵である信玄も同年に急逝した。
嫡子は謙信の養子に迎えられ山浦国清(やまうら・くにきよ)と名乗り、上杉家でも第2位の高位に上り詰めたが、1598年、上杉家が会津へ移封されると歴史から姿を消しており、出奔したと思われる。