三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)
越後の人(1556~1623)
上杉家の当主。父は長尾政景(ながお・まさかげ)、母は上杉謙信の姉・綾御前。
1564年、父が謎の溺死を遂げると叔父・謙信の養子となった。
非常に無口で感情を表に出さず、ある時、飼っていた猿が景勝のものまねをしているのを見て笑ったのを除き、ただの一度も家臣に笑みを見せなかったという。
将兵もまた景勝に準じて統制厳しく、行軍中も一言も発せずただ人馬の足音だけが響いていたと伝わる。
長じると一門衆の筆頭格となり、謙信からも後継者に目されていたようだが1578年、謙信が急死すると北条家から人質兼養子に迎えていた上杉景虎(かげとら)との間で跡目争いが巻き起こった。
景虎には北条家と同盟を結ぶ武田家が味方し、国境近くまで進軍してきたが、景勝は黄金の譲渡と武田勝頼(かつより)の妹をめとることを条件に武田家と和睦。
景虎は後ろ盾にしていた謙信の養父・上杉憲政(のりまさ)と嫡子が暗殺され、正室で景勝の姉も自害すると拠り所を失い、1579年に自害した。
景勝は名実ともに上杉家を継ぎ、国人衆は景虎方はもちろん自分に味方したものまで粛清し、実家の長尾家の権力を強めた。
だが1581年、景勝方として奮闘したもののわずかな恩賞しか与えられず、他の国人衆も粛清され不満を抱いた新発田重家(しばた・しげいえ)が織田・伊達家の援助を得て反乱した。
さらに柴田勝家率いる4万の織田軍が侵攻、翌年には同盟者の武田家が滅亡し、ついに越中も陥落した。
景勝は盟友の佐竹義重(さたけ・よししげ)へ「良い時代に生まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑み、滅亡することは死後の思い出である」と語るほどの窮地に追い詰められたが、織田信長が本能寺で討たれたため戦況は一変。織田軍は全軍撤退し、逆に北信濃へ侵攻し北条家と領土を分けあった。
新発田重家の反乱鎮圧には大きく手間取り多くの将を討たれ、景勝自身も危うく戦死しかけたが、織田政権を掌握した羽柴秀吉によしみを通じ、徐々に版図を広げた。
1587年には新発田重家を破り越後を再統一。1589年には佐渡と出羽の一部を切り取り、90万石に勢力は拡大した。
腹心・直江兼続と二頭政治を布き、文禄の役では秀吉の名代として参陣し、1595年、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が隠居すると後任の五大老に任じられた。
1598年、蒲生氏郷(がもう・うじさと)が没すると関東の徳川家康、奥州の伊達政宗への押さえとして会津120万石へ移封し、豊臣政権での地位は安泰かと思われた。
だが秀吉が逝去すると、兼続と懇意だった石田三成に協力し、徳川家康と対立。
1600年、景勝は領内の築城・改修を独断で進めたため家康が問責の使者を送ると、兼続は「直江状」として著名な挑発的な書状を返し、家康を激怒させた。
家康は全国に号令を発し会津征伐の兵を挙げると、その隙をつき石田三成が豊臣家の名代として挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発。
景勝は家康方の東軍に与した伊達政宗や最上義光(もがみ・よしあき)と戦い、最上方の長谷堂城を大軍で包囲するが志村光安(しむら・あきやす)の防戦により落とせず、関ヶ原で三成ら西軍が大敗すると撤退。やむなく家康に降伏した。
翌1601年、景勝は家康の次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)のとりなしを得て謝罪し、家名存続は許されたが出羽米沢30万石へと大幅に減封された。しかし景勝は家臣を全く解雇しなかったため、30万石の身で120万石の家臣を召抱えた米沢藩はしばらく財政難が続くこととなった。
以降は徳川家に従い領内の政治に励み、米沢を大いに発展させた。
1614年からの大坂の陣にも徳川方として参戦し事なきを得て、上杉家は幕末まで続いた。
~~前田慶次との関係~~
天下一の傾奇者・前田慶次が仕えた唯一の人物が景勝である。
ある時、秀吉が催した宴席で慶次は余興として猿面を踊りだし、居並ぶ諸大名の膝の上に座り猿の真似をする暴挙に出た。
秀吉の面前でもあり、余興に怒るのも無粋と諸大名は我慢していたが、慶次は景勝にだけは絡もうとしなかった。後に理由を聞かれると「景勝殿は威風凛然としていてどうしても座ることができなかった。天下広しといえども真に主君と頼めるのは景勝殿しかいない」と語ったという。
その後、慶次は景勝に仕え、長谷堂城の戦いでは撤退する上杉軍の殿軍を務め、奮戦して無事に景勝や旧友の直江兼続を逃がした。