三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
越後の人(1530~1578)
越後の大名。本名は上杉輝虎(てるとら)で謙信は法号。
生涯でほとんどの戦に勝利し「軍神」や「越後の龍(虎)」の異名で知られる。
越後守護代・長尾為景(ながお・ためかげ)の四男に生まれる。幼名は虎千代(とらちよ)。姉に綾御前がいる。
父の為景は越後守護を自害に追い込み、関東管領を討ち取るなど勢力拡大に勤しんだが、旧臣や一族の反発を招き越後統一にまでは至らなかった。
1536年、為景は隠居すると息子の長尾晴景(はるかげ)に家督を譲り、虎千代を林泉寺で出家させた。父に疎まれていたとも伝わる。
林泉寺の住職・天室光育(てんしつ・こういく)に学び、虎千代は軍学に特に興味を示した。2メートル四方もある城の模型を造り図上演習に熱中し、修行を疎かにしたため天室光育は「虎千代殿に僧侶は無理」とさじを投げ、寺から出された。
1542年、為景が没するとその隙をついて敵対勢力が押し寄せ、虎千代らは甲冑姿で葬儀を行ったという。
晴景は才気に乏しく、越後守護の上杉定実(さだざね)も復権し、日に日に長尾家の力は衰えていた。
虎千代は翌年に元服すると長尾景虎(かげとら)と名乗り、戦に出るようになった。
当時、上杉家は伊達家から婿養子を迎えようとしていたが、反対派も根強く内乱状態に陥っていた。反乱軍は15歳の景虎を侮り城下に攻め寄せたが、景虎は伏兵を敵の背後に回すと挟撃を仕掛け、見事に初陣を飾った。
1545年、黒田家が反乱を起こしたが、景虎は兄を殺されながらも反撃し滅亡に追いやった。
兼ねてから晴景に不満を抱いていた国人衆は武勇に優れた景虎を推し、晴景に退陣を迫るようになり兄弟の仲は険悪化した。
越後を二分する内乱に発展しかけたが1548年、上杉定実が調停し晴景に景虎を養子に取らせたうえで隠居させ、ここに19歳の越後守護代・長尾景虎が誕生した。
1550年、上杉定実も没すると景虎は22歳にして名実ともに越後を統一した。かつて晴景派についた長尾政景(まさかげ)が反乱を起こすもすぐに鎮圧し、景虎の姉婿(綾御前の夫)に当たる政景は赦され、以降は家老として重きを置かれた。
1552年、関東管領・上杉憲政(のりまさ)は北条氏康に上野国を奪われ景虎のもとへ亡命した。
景虎は憲政を旗印に攻め込み、北条幻庵(ほうじょう・げんあん)を破り上野を奪回。さらに武田信玄に領国を奪われた信濃守護・小笠原長時(おがさわら・ながとき)や村上義清(むらかみ・よしきよ)が庇護を求めると、信濃にも侵攻。
武田方の城を次々と落としたが、信玄が前線を下げ防衛線を敷くと、上洛の予定があった景虎は深追いせずに兵を引き上げた。世に言う「第一次川中島の戦い」である。
上洛した景虎は後奈良天皇や将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)に拝謁すると、天皇からは剣や盃とともに「朝敵を討伐せよ」と勅命を賜り、高野山にも詣でたという。
1554年、第二次川中島の戦いも有利な条件で和睦を結び兵を引き上げたが翌年、家臣の内紛や国人衆の争いの調停に嫌気が差した景虎は、突如として出家を宣言し、高野山へ向かった。
旧師の天室光育や長尾政景の説得で翻意したが、大熊朝秀(おおくま・ともひで)がその機に乗じて反乱するなど混乱を招いた。
1557年、武田信玄は和睦を破棄して長尾領に攻め込んだ。
激怒した景虎が反撃に転じると信玄は決戦を避け、背後へ兵を回したが決定打に欠け、小競り合いで終わった。第三次川中島である。
信玄は以降、雪に阻まれ景虎が兵を出せない冬期を狙って、じわじわと長尾領に侵攻していく。
1560年、今川義元が桶狭間で戦死し武田・今川・北条の三国同盟にほころびが生じると、景虎はその隙をつき北条家を攻めた。
関東管領・上杉憲政の名の下に大号令を発すると反北条勢力が集結し10万もの大軍に膨れ上がった。
さしもの北条氏康もたまらず小田原城に籠城したが、景虎にも天下一の名城を落とすことは出来ず、また信玄が川中島に迫り、長期の包囲戦で兵糧不足に陥った佐竹家ら連合軍の諸大名も次々と離脱していき、やむなく景虎は撤退した。
また包囲戦のさなかに景虎は上杉憲政から関東管領と山内上杉家の家督を譲られ、上杉政虎(まさとら)と改名した。(憲政が亡命した時点で管領職の移譲や養子縁組はなされたとする説もある)
1561年、第四次川中島ではこれまで決戦を避けてきた両雄がついに激突。武田軍の采配を読んだ政虎は信玄の弟・武田信繁(のぶしげ)や山本勘助(やまもと・かんすけ)ら名だたる敵将を討ち取った。
また武田方の史料には政虎が自ら信玄の本陣に切り込み、一太刀浴びせるも信玄はそれを軍配で受け止めた、と記されている。
しかし上杉方の史料には見当たらず、もし本当に政虎が切り込んだならば大いに喧伝してしかるべきで、察するに本陣まで侵入を許した武田方が、かの政虎に切り込まれたと脚色することで面目を保とうとした、といったところだろうか。
また大勝した上杉軍も無傷では済まず、消耗した隙をついた北条軍の反抗により武蔵の国人衆が次々と寝返り、また上杉方につき箕輪城を守り「上州の黄斑」とうたわれた猛将・長野業正(ながの・なりまさ)が病没すると上野方面でも武田軍が優勢となり、前線の後退を余儀なくされた。
同年12月、政虎は将軍・足利義輝から一字拝領し上杉輝虎(てるとら)と改名した。
1562年、越中の神保家が反乱し、それにかかりきりになった隙に武田・北条連合軍は武蔵の松山城を囲んだ。
輝虎は雪中行軍で救援に急いだが間に合わず、武蔵の拠点である松山城を翌年に失った。
しかし雪解けを迎えるや輝虎は猛反撃に転じ、下野、下総、常陸に侵攻し結城家、成田家らを降し、再三にわたり背いた佐野昌綱(さの・まさつな)もようやく屈服させた。なお彼らは輝虎が撤退すれば北条・武田方に、輝虎が侵攻すれば上杉方へとその後も目まぐるしく所属を変え、狡猾に立ち回っている。
1564年、第五次川中島はにらみ合いに終始し、これを最後に信玄は信濃統一を諦めた。上杉家も北信濃は抑えたが、信玄に奪われた村上家、高梨家の旧領を回復するには至らず、五度に及んだ川中島の戦いは痛み分けに終わったと言える。
1565年、親交厚かった足利義輝が三好三人衆らによって暗殺された。それに気落ちしたかのように関東での上杉軍は劣勢に立たされていく。
翌1566年、同盟を結んだ里見家が北条家に攻められると、輝虎はそれを救援すべく下総に侵攻し千葉家の臼井城を囲んだ。
だが軍師・白井浄三(しらい・じょうさん)は巧みな指揮と、取り付いた上杉軍を城壁ごと崩す奇計でさんざんに打ち破った。輝虎自ら采配を振るいながら惨敗を喫したこの戦いを上杉方は史料に残さず、一説には5千以上の死傷者を出したという。
この敗北を機に関東の諸大名は続々と北条方に寝返り、北条高広(きたじょう・たかひろ)、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)ら重臣も一時離反し、また長野業正の没後も抵抗を続けていた箕輪城も武田家に落とされ、実質的な関東での領土は東上野を残すだけとなった。
1569年、三国同盟を破棄し今川領に攻め込んだ武田家と断交した北条家は、宿敵の上杉家に和睦を持ちかけた。
輝虎ははじめ渋ったが、この頃には越中や出羽へ勢力を伸ばしており、また関東では劣勢で北条家には拠点の関宿城を囲まれていたため、和睦を承諾した。
一方で長年にわたり上杉家に協力した関東の諸大名は反感を抱き、里見家や佐竹家は敵対する姿勢を見せた。
1570年、北条氏康の七男を養子に迎え、初名を与え上杉景虎(かげとら)と名乗らせ、自身は法号「不識庵謙信」を称した。
だが蜜月は短く1571年、北条氏康が死去すると跡を継いだ北条氏政(うじまさ)は同盟を破棄し武田家と和睦した。
1572年、武田信玄は一向一揆を扇動し、謙信を越中に釘付けにし後顧の憂いを断つと上洛戦を開始した。
三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝した武田軍が迫ると、織田信長は謙信に同盟を持ちかけた。
信玄は1573年に急逝したものの、一向一揆は加賀・越中の両国を巻き込んで拡大の一途をたどり、鎮圧しても再蜂起を繰り返したため、業を煮やした謙信は越中の制圧を決断した。
北条家は手薄になった上野、下総に攻め寄せ、進撃はなかなか進まなかったが1576年、織田信長と敵対する本願寺を率いる顕如(けんにょ)と和睦し、長年悩まされてきた一向一揆を逆に味方につけた。
以降、謙信は足利義昭(よしあき)の敷いた「第二次信長包囲網」にも加わり、再び上洛を目指すことになる。
同年、椎名家を打ち破り越中を制圧した謙信はさらに能登へ侵攻した。
難攻不落の七尾城を攻めあぐんだが、守る畠山家は幼い当主が病没すると実権を握っていた家老らに不協和音が生じ、謙信の調略を受けて同士討ちを始め翌1577年に陥落。能登も上杉家の支配下となった。
さきに内通する畠山家の家老から救援要請を受けた信長は、柴田勝家を総大将に羽柴秀吉、滝川一益(たきがわ・かずます)、丹羽長秀(にわ・ながひで)、前田利家、佐々成政(さっさ・なりまさ)らそうそうたる面子を送り込んでいた。
すでに七尾城は落ちていたが勝家はそのことを知らずに上杉軍との開戦を決断。意見の対立した秀吉は兵を引き上げたが構わず進軍し、手取川を渡ったところでようやく七尾城の陥落を知った。
さらに謙信自ら率いる大軍が目の前まで迫っており、勝家は泡を食って撤退を指示したが渡河に手間取るうちに追撃を受け大敗した。
1577年、居城に戻った謙信は遠征(上洛戦あるいは関東への再進撃か)のため大号令を発したが翌1578年3月、出陣の6日前に厠で倒れ急死した。享年49。
遺体は土葬せず甲冑を着せ太刀を帯びた姿で甕に収め漆で密封し、明治維新を迎えるまで上杉家居城の本丸に安置されたという。
死因は脳溢血と見られ、大変な酒豪で味噌や梅干を肴に飲んでいたという逸話から不摂生もうかがえ、また現在は散逸した肖像画には自分の後ろ姿として盃を描かせ「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。
妻帯せず養子を4人迎えていたが、生前に後継者を決めておらず上杉景虎と、甥(綾御前と長尾政景の子)の上杉景勝(かげかつ)との間で激しい跡目争いが勃発した。これにより国力の衰退を招き、後の上杉家没落の一因になったと言わざるを得ない。